小豆島の南側、日当りのいい池田地区。その池田の玄関口、池田港から徒歩数分、そこに東洋オリーブさんの工場と畑があります。
今回、お話を伺ったのは営業部長の藤塚隆さん。
自社の畑を持ち、苗木生産、栽培、食品製造、化粧品製造、販売までを手がける東洋オリーブ。藤塚さんも入社したての頃は製造の仕事に携わっていたそうです。
昭和30年、今から約60年前に小豆島でオリーブの栽培を始めた東洋オリーブ。現在は小豆島池田地区に12ha、豊島に13ha、約3万本のオリーブの木を育てる畑があり、その広さは日本最大の面積を誇ります。
始まりは戦後間もなく、一時は日本の三大億万長者の1人とも呼ばれた南俊二氏が海運王オナシス氏と食事した事がきっかけです。南氏は釣ったばかりのイワシを油で揚げたシンプルな料理の美味しさに釘付けになります。その揚げ油がエキストラバージンオイル。ギリシャ出身のオナシスの話を聞くうちに「この感動を日本に伝えたい!」という想いが強くなり、ギリシャから帰国後、日本でオリーブ栽培を行なっている場所を探して見つけたのが小豆島。
何も無いところからスタートしたオリーブ栽培は、山を開墾することから始まります。最初の頃は豚や牛を飼いながらその堆肥で土づくりを行ないました。
「この事業は半世紀かかる。50年赤字が続いてもいいからひ孫の代に残していける事業にしよう。」そう語り、半世紀先を見据えたこのオリーブ栽培の事業は、48期目にようやく黒字になりました。
地域密着型の会社であること、大きくしなくていいから、きらりと光るものを大切にコツコツと積み上げていくこと。東洋オリーブは、初代、南俊二氏の想いを今でも大切にしている会社です。
東洋オリーブには、日本で最大の遠心分離法の採油工場があります。実は東洋オリーブが工場を作るまで小豆島にはオリーブの採油工場は有りませんでした。民間初のオリーブ工場はそれまで農業試験場しかなかった小豆島内で、東洋オリーブ自社以外の採油や加工なども請負い、小豆島のオリーブ栽培の縁の下の力持ちとして活躍します。
長年培った高い採油技術を使用し、地中海から仕入れたエキストラバージンオリーブオイルを日本人の好みに合わせて精製しています。
右が精製前のエキストラバージンオイル、左が精製後のオイル。
一見、なんだかもったいない!と思ってしまいますが、オリーブオイルの販売を始めた当初、オリーブ独特の香りは日本人の味覚には馴染みづらかったため、この精製オイルが生まれました。
オレイン酸を多く含みながらも、サラサラと透明なこのオリーブオイルは癖がなく普段使いや、揚げ物に向いています。
毎月第一土曜日には自社の工場で精製したオリーブオイルの計り売りもしており、近所の方が朝早くに並んでいたり、船に乗って買いに来られる方もいたりするほどの人気です。
毎年11 月には小豆島でとれたオリーブオイルの販売も始まります。料理によってオリーブオイルを使い分けてみる。そんな贅沢なことも出来てしまいます。
小原紅早生とは、香川特産のみかん。
小原さんの畑で「宮川早生」という品種が枝変わりして偶然生まれた品種です。
真っ赤な外皮と濃厚な甘みが特長です。
かわいらしいパッケージの小原紅早生の缶詰。
ふたを空けるとぎっしりときれいな実がたくさん入っています。
香川県財田町、竹林が茂る山間部に讃岐缶詰の本社はあります。
筍の産地でもあるこの地域。昭和4年、地元の特産品の筍の加工を目的に地元の人たちで農業物加工販売組合として設立されました。昭和27年には現在の讃岐缶詰株式会社として設立。現在は財田の本社工場のほかに、三野、善通寺、秋田県にも工場があります。
約50種類ほど、多岐に渡る農産物を加工する讃岐缶詰。
フレッシュな青果を収穫されたその時期に加工します。
「自然相手だからなかなか計画通りにはいかないですよ。
それに味も皮の厚さも糖度もその年々で変わってくるから、缶詰作りには様々な知識と経験が必要です。」
約45年讃岐缶詰に勤めている大西さんは戦前からの従業員の人とも多く仕事をしてきました。
そのときから何度も教えられていたのがこんな言葉。
「なによりも信頼が大切。」
「そして大事にしている考え方は生産者もいい、働く人もいい、お客さんもいい、三方よしの会社であること。」
そんな教えが基板にあったからこそ、安価な外国産の原料が多く出回り始めても国産の材料にこだわり商品を作り続けました。それは会社が大切にしている信頼と三方よしの考えを今でも大切にしているからに他ありません。
OEM商品を中心に展開している讃岐缶詰。発注を受け続けているのはやはり確かな技術と信頼があるからこそだと感じました。
真っ赤な小原紅早生。取材に伺った1月が丁度収穫時期。たくさんの小原紅早生がコンテナで運ばれていました。
果実は更に大きさごとに手作業で選別し缶につめられます。
スタッフの人たちはそれぞれ担当行程が決まっているそうで
「どの人もね、もうずっとこの仕事に携わっていてベテランがとっても多いんです。」
スタッフの人たちは勤続年数も長いそうで、工場を案内してくれた方の少しはにかんだ、でも自分の仕事に誇りをもっているような笑顔が印象的でした。
シャキシャキ嬉しい歯ごたえ。
大粒のえのき茸とたけのこが、たっぷりはいったなめ茸は、ホカホカの炊きたての白米に乗せて食べるとそれだけで充分に御馳走。それだけでご飯が何杯も進みます。
三つの豊かと書く「三豊(ミトヨ)市」。香川県の西に位置するこの地域は、香川県の中でも有数の農業が盛んな地域です。この地域で採れたものにこだわり食品加工を続けている会社が今回取材に伺ったミトヨフーズです。
ミトヨフーズの位置する三豊市財田町。徳島県との県境一体にかけて存在する猪ノ鼻峠を含む自然豊かな山の景色が広がります。ミトヨフーズのロゴマークの三つの丸は、そんな自然豊かな三豊の水と空気と大地を表現しているそうです。
ミトヨフーズの工場の裏は、田んぼと竹林、そして山という景色が広がる自然豊かなロケーション。ミトヨフーズの商品には、こんな豊かな環境の元で収穫された筍やえのき茸、また三豊市詫間町の荘内半島で栽培された香川本鷹が使用されています。
「地元のよいものを、もっと沢山の人に知ってもらいたい。地元のものを使っておいしい食品を作りたい。」そんな想いから先代の社長はミトヨフーズを始めます。だからこそ地元の素材の美味しさを最大限に引き出せるよう、そして家庭の懐かしい味を再現できるようにこだわって作られています。
昔から有名な財田の特産品、筍は地元の農家さんが朝、掘ってきたものをすぐに蒸すことで、筍の旨味が凝縮させます。昼間に収穫したものや、収穫してから時間のたった筍は、アクによるえぐみが増してしまうからです。筍を持って来てもらう農家さんは土の手入れをしっかりしている農家さん。土の手入れが施された筍は柔らかく育ちます。地元だからできる農家さんとの連携で素材の味を最大限に生かす加工方法で作られた筍は、素材の良さを味わってもらえるよう大きくカット。
えのき茸はミトヨフーズの近隣にあるえのき茸を作っている会社から仕入れ、新鮮なうちに加工します。大きくカットすることで、食感が残るように工夫しています。
炊きあがったばかりのなめ茸はそのままご飯に乗っけて食べたくなってしまう良い香り。
社長を含め全従業員7名のミトヨフーズの商品は、1回ごとに窯で炊上げ作っているため大量生産はできません。また炊上げ作業は社長自らも担当し、火の入り具合を調整します。まさに手作りの加工食品の会社、ミトヨフーズ。三豊の味がぎゅっと詰まった味をお楽しみください。
約300年以上前。元禄2年、高松藩藩主が朝廷の装束方御用を務めていた織物師・北川伊兵衛常吉に、新しい絹織物の製作を命じ、作られたのが保多織の始まりです。
以来、保多織は幕府への献上品としても使われるようになりました。
保多織の技法は、一子相伝の秘法として北川家で6代に渡り伝えられ、明治維新後、北川家の血縁にあたる岩部家がその技法を継ぎ現代に至ります。
高松市内の中心部、かつて高松城の城下町だった場所に岩部保多織本舗の工房はあります。
工房と店舗が一体となった建物の中は、棚一杯に保多織製品が並びます。
店舗奥の工房では、保多織を縫製するミシンのリズムカルな音が響き、店舗では訪れるお客さんと岩部さんの話声が聞こえる、なんとも心地いい空間です。
創業120年の岩部保多織本舗の4代目、岩部卓雄さんにお話を伺いました。
「1反、手作業で織り上げるのに大体8日間。手織りの発注があったときは、日中はお客様や電話の対応などで集中できないので、大体夜に作業します。」
店内におかれた織り機。この織り機は、遠方での展示の際に持参する織り機で、解体し、コンパクトに持ち運びができるそうです。
綿の保多織は、小巾の自動織機と、シーツも織れる大きな機械で織られています。
「機械とはいっても昔からずっと使っているものでしょ。糸の張り具合の調整など、この機械を操るのが大変なんです。調子をくずしたら修理するにも一大事。」
「代表もまだ小さいお子さんがいるため色々考慮してくれ、お母さん達にとってとても働きやすい職場なんです。」と笑顔で教えてくれました。
糸の張り具合、織り具合、すべて機械によって異なるため、目で、手で確認をする必要があります。そして、今ある機械を大切に使い続け、後世に残すことも重要な仕事の一つです。
織り機には糸が一本一本小さな穴に通され、それで経糸を操作して織り上げていく。この作業は展示の際に持参する織り機でも同じことです。
目を細めなければいけないほどの小さな穴。その穴に糸を通すのも、もちろん手作業とのこと。その大変さを想像し、驚いていると、
「別に驚くようなことではないですよ。昔から普通にしていたことなので。どれも特別なことではなく、昔の人たちが行っていた普通のことなんです。」
と教えてくれました。
保多織の特徴はこのワッフル状になった生地。
普通の平織りの布は縦糸と横糸をすべて交差させますが、保多織は3回平織りで打ち込んで、4本目の糸を浮かせる織り方にあります。こうすることで、生地に空気を多く含み、夏はさらりと涼しく、冬は暖かい生地となります。
保多織は使いこむほどに肌なじみがよくなります。肌に溶けこむようなその質感は、使った人だけが感じることができる、なんとも言えない気持ちよさです。
岩部家に保多織が引き継がれた頃に、それまで絹で作られていた保多織が木綿でつくられるようになります。
「絹は高級品。それを木綿に変えることでより多くの人に使ってもらえるようになった。僕はこの保多織のシーツを、全国の人に敷いてあげたい。そのくらい、この保多織は肌触りがいいんです。」
岩部さんはそうおっしゃいます。
岩部家に引き継がれたことで、私たちの生活に身近になった保多織。
一貫しているのは「より多くの人にこの心地良いものを使ってもらいたい」という本当にいいものを残していこうとする気持ちと、様々な人達にとって心地よい生活品を届けようという思いやりのように感じました。
取材の最中も絶えずお客さんがやってくる店内。
長年、岩部保多織本舗で寝間着を作っているお客さんや、自身の洋服、そして父親へのプレゼントを探しにきたというお客さんなど。
「ここのはね、一度使ったらもう他のものは使えなくなるよ」そう聞こえてきた言葉が、地元の人に愛され続けている何よりの証拠です。
勇心酒造の日本酒は、居酒屋はもちろん酒屋でもなかなかお目にかかれませんでした。それもそのはず、創業160年の歴史の中でここ30年間はほとんど酒造りをしていなかったのです。その代わり、酒造りの決め手となるお米の発酵技術の研究を突き詰め、その技術を化粧品メーカーに提供したり自社で化粧品を開発したりして、美容健康業界に貢献してきました。
ところが2011年、地酒「勇心」を醸造し、2013年には「かがわ県産品コンクール」で最優秀賞を受賞し、またたく間にその評判が広がりました。なぜ今、地酒造りを再開したのでしょうか。
勇心酒造が日本酒造りを本格的に再開した背景には、地元の農業を支えたいという思いもありました。
減農薬米と酒蔵周辺の地域を潤す綾川の水を使って、地酒を造ろう。そんな思いで、数年前から三豊市財田町の農家と力をあわせて減農薬の米作りに取り組み、ようやく軌道に乗り始めたのが3~4年前のことです。
そのため、あるだけのお米でしか日本酒を造れず、香川県内でもなかなかお目にかかれません。
通常はどの酒蔵にも、お酒を造る蔵人のリーダー、たとえば大工でいえば棟梁のような存在の「杜氏(とうじ)」がいます。しかし、勇心酒造には杜氏はいません。地酒「勇心」は7人の研究者が造っており、年齢は蔵人としてはとても若い20~30代です。大学で微生物や細胞について学んだ理系出身者である蔵人たちは絶えずお米の発酵について研究を続けています。相手は生きている酵母。気候が違えば管理の方法も異なるため、研究者は日夜データを分析し、そのデータを基に酒造りを行っています。そして長年の研究の結果、思いどおりの日本酒の味を造るにはどの微生物を使えばいいかが少しずつ分かるようになってきました。
さらに、発酵と酵母その繊細さについて知りつくしているからこそ、できあがった日本酒の管理にも気を遣います。販売店を限定し、陳列する際にもきちんと冷蔵保存してくれる酒屋だけにお酒を置くことにしました。これも香川県内でもなかなかお目にかかれない理由のひとつです。
平成25年度にかがわ県産品コンクールで知事賞を受賞した「勇心 純米吟醸 9号」、「勇心 純米吟醸 14号」は、香川県の原料にこだわり、瀬戸内の魚に合う酒を目指して造られました。原料や味のほか、もう一つ注目すべきがそのデザインです。酒を瓶から注ぐ時に酒が瓶の中を流れる様子に注目してください。ラベルの間を酒が流れていく様子は、まるで砂時計が時を刻んでいるように見えます。それは、長年の勇心酒造の歴史を表しているかのようでもあります。
地元の農業に対する思いや緻密なデータに基づいた酒造り。勇心酒造はこれからも地元に根付いた酒造メーカーとして、新しい商品を生み出していくことでしょう。