昔ながらの製法、杉桶で自然発酵させて造る醤油、鶴醤(つるびしお)。
再仕込みという醤油を造る製法で造られた鶴醤は、約4年の歳月をかけて造られます。塩味も角がとれ、まろやかで旨味の凝縮した濃い味わい。
いつもの食べ方以外にも、そのままワサビと併せて焼き肉のタレに、バニラアイスにかけて食べても美味しくいただけます。
鶴醤をはじめ、杉桶で自然発酵の醤油を造っているのが小豆島安田地区にあるヤマロク醤油さん。高松港からフェリーで約1時間、瀬戸内海では淡路島に次ぐ第2位の面積の小豆島は、かつては島塩とよばれる全国でも有数のブランド塩の産地でもありました。また海上交通が盛んだった瀬戸内海。塩以外の材料は海を越え運ばれ醤油が造られるようになりました。
今でも小豆島には島の中に20 軒以上の蔵が残っています。特に今でも醤油蔵が多く残る安田地区。この川沿いにヤマロク醤油さんはあります。
今回お話を伺ったのは5代目、山本康夫(やまもとやすお)さん。「この5代目も正確な記録上の5代目であって本当は6代目、7代目かもしれません。」そうおっしゃるほど長く歴史のある醤油屋を守る5代目です。
「醤油屋は儲からんから継がんでええ。」
そう父親から言われていた康夫さんですが、島に戻りたいという想いと、大学卒業後の就職先で垣間みた食品業界への憤りから蔵を継ぐことを決意。
「意気込んで帰ってきたけれど帳簿を見て愕然としました。」
それだけではなく、父親が『地獄のもろみ混ぜ』と呼んでいた春から夏にかけて活発に発酵するもろみを混ぜる作業。もろみの発酵熱も加わってサウナ状態の中、手作業で桶をかき混ぜる作業は毎日欠かすことなく行ないます。
この時期はそのハードワークから体重が6~9kgも減るそう。蔵の維持にも莫大な費用がかかることがわかってきました。
これだけ大変なことが分かっても続けている醤油造り。それは、蔵に生き続ける菌達に美味しい醤油を造ってもらうため。
杉桶は醤油蔵に住み着いている酵母菌や乳酸菌でびっしりと覆われています。この菌は蔵ごとにいる種類も量も異なり、造り出す醤油の味を変えます。
「醤油を造っているのはこの蔵に住み着いている菌たち。僕は菌が醤油を造ってくれるのを手伝っているだけ。」と山本さんは言います。
だからこそ、地獄のもろみ混ぜを行い、昔からの蔵を維持しています。
「うちの蔵の菌達はね、女性のお客さんが来ると特に元気になるんです。」
その言葉通り、階段を登って桶を覗き込むと、不思議なことにそれまで発酵途中の桶からプチプチと泡が上がる音が大きくなっていきます。まるで見学にきたことを歓迎するかのように大きな音が響きます。
「科学的な根拠はないけれど、めんどくさいなと思って仕事していると菌達に伝わってしまう。逆に気持ちを込めるとそれが菌に伝わって醤油の味がぐんとよくなる。」
そう、醤油を含め食べ物をつくるということは、本来は自然とそして生き物と向き合う仕事なのだと山本さんの話を聞いていてつくづく感じます。
「小豆島に杉桶は約1050本。日本全国で発酵調味料に使われている杉桶は約4000本、その半分くらいが醤油、味噌に使われているとしても約2000本。日本の杉桶の約半分が小豆島にあることになる。こんなに杉桶が密集している地域って他にない。」
発酵菌や乳酸菌が生きていくためにはこの杉桶が欠かせません。けれどもその杉桶は年々減ってきています。
「うちの杉桶を桶職人さんに見てもらって、もう既に杉桶の寿命とも言われている150年を経過していることが分かった。幸いな事に大切に使えば僕の子供の代までは使えることが分かったけれど、子供の代で終わり。そもそも、この大きな杉桶をつくる職人さんは全国にも3人しかいない。」
中古の杉桶でも試したが、その桶に住んでいる菌の影響で上手くヤマロクさん蔵の菌が住み着いてくれない。やはり新しく杉桶を造らなくてはならない。
その思いで新しい杉桶を発注した時、職人さんは「戦後、醤油屋から注文が来たのは初めてだ」と職人さんも山本さんも驚いたそう。その言葉は、日本全国で現存している杉桶が古くなっていること、そして杉桶自体の数が減ってきていることの証です。
けれどヤマロクさんの杉樽を見てくれている、山本さんが師匠と呼ぶ大阪の職人さんは、2020年には職人を引退すると宣言していたそうです。
「もうねこんな大きな杉桶を造れる人自体がいない。それは、最近、和食が無形文化財にもなっていたけれど、本物の和食の味が消えてしまうということなんです。」
そこで山本さんは2012年、自分自身で桶を造ることを決断します。地元の大工さんと大阪の職人さんの元へ修行に行き、造り方を一から勉強し、実際に桶を造りあげました。もちろんその過程は今回の取材では納まりきらない位のストーリーがあります。
「僕らの蔵の醤油がちゃんと売れたら、真似して杉桶で醤油を造ろうってところが出てくると思うんです。その時に、地元の大工さんが桶を造るのが仕事になる。桶を造ることが普段の大工仕事よりもいい収入につながれば、桶屋になろうってやつが出てくるでしょ。」
100年先を見据えたヤマロクさんの醤油造り。
「長男は醤油屋、次男は桶屋になってもらいたい。」
「本物の味」と簡単に言ってしまいがちだが、こんな風に全てをかけて日本の味を守っている人が香川にいて、今日も醤油を造っている。ぜひ一度、蔵に行って、そしてヤマロク醤油さんの醤油を味わってもらいたいと思います。
小豆島の南側、日当りのいい池田地区。その池田の玄関口、池田港から徒歩数分、そこに東洋オリーブさんの工場と畑があります。
今回、お話を伺ったのは営業部長の藤塚隆さん。
自社の畑を持ち、苗木生産、栽培、食品製造、化粧品製造、販売までを手がける東洋オリーブ。藤塚さんも入社したての頃は製造の仕事に携わっていたそうです。
昭和30年、今から約60年前に小豆島でオリーブの栽培を始めた東洋オリーブ。現在は小豆島池田地区に12ha、豊島に13ha、約3万本のオリーブの木を育てる畑があり、その広さは日本最大の面積を誇ります。
始まりは戦後間もなく、一時は日本の三大億万長者の1人とも呼ばれた南俊二氏が海運王オナシス氏と食事した事がきっかけです。南氏は釣ったばかりのイワシを油で揚げたシンプルな料理の美味しさに釘付けになります。その揚げ油がエキストラバージンオイル。ギリシャ出身のオナシスの話を聞くうちに「この感動を日本に伝えたい!」という想いが強くなり、ギリシャから帰国後、日本でオリーブ栽培を行なっている場所を探して見つけたのが小豆島。
何も無いところからスタートしたオリーブ栽培は、山を開墾することから始まります。最初の頃は豚や牛を飼いながらその堆肥で土づくりを行ないました。
「この事業は半世紀かかる。50年赤字が続いてもいいからひ孫の代に残していける事業にしよう。」そう語り、半世紀先を見据えたこのオリーブ栽培の事業は、48期目にようやく黒字になりました。
地域密着型の会社であること、大きくしなくていいから、きらりと光るものを大切にコツコツと積み上げていくこと。東洋オリーブは、初代、南俊二氏の想いを今でも大切にしている会社です。
東洋オリーブには、日本で最大の遠心分離法の採油工場があります。実は東洋オリーブが工場を作るまで小豆島にはオリーブの採油工場は有りませんでした。民間初のオリーブ工場はそれまで農業試験場しかなかった小豆島内で、東洋オリーブ自社以外の採油や加工なども請負い、小豆島のオリーブ栽培の縁の下の力持ちとして活躍します。
長年培った高い採油技術を使用し、地中海から仕入れたエキストラバージンオリーブオイルを日本人の好みに合わせて精製しています。
右が精製前のエキストラバージンオイル、左が精製後のオイル。
一見、なんだかもったいない!と思ってしまいますが、オリーブオイルの販売を始めた当初、オリーブ独特の香りは日本人の味覚には馴染みづらかったため、この精製オイルが生まれました。
オレイン酸を多く含みながらも、サラサラと透明なこのオリーブオイルは癖がなく普段使いや、揚げ物に向いています。
毎月第一土曜日には自社の工場で精製したオリーブオイルの計り売りもしており、近所の方が朝早くに並んでいたり、船に乗って買いに来られる方もいたりするほどの人気です。
毎年11 月には小豆島でとれたオリーブオイルの販売も始まります。料理によってオリーブオイルを使い分けてみる。そんな贅沢なことも出来てしまいます。
小原紅早生とは、香川特産のみかん。
小原さんの畑で「宮川早生」という品種が枝変わりして偶然生まれた品種です。
真っ赤な外皮と濃厚な甘みが特長です。
かわいらしいパッケージの小原紅早生の缶詰。
ふたを空けるとぎっしりときれいな実がたくさん入っています。
香川県財田町、竹林が茂る山間部に讃岐缶詰の本社はあります。
筍の産地でもあるこの地域。昭和4年、地元の特産品の筍の加工を目的に地元の人たちで農業物加工販売組合として設立されました。昭和27年には現在の讃岐缶詰株式会社として設立。現在は財田の本社工場のほかに、三野、善通寺、秋田県にも工場があります。
約50種類ほど、多岐に渡る農産物を加工する讃岐缶詰。
フレッシュな青果を収穫されたその時期に加工します。
「自然相手だからなかなか計画通りにはいかないですよ。
それに味も皮の厚さも糖度もその年々で変わってくるから、缶詰作りには様々な知識と経験が必要です。」
約45年讃岐缶詰に勤めている大西さんは戦前からの従業員の人とも多く仕事をしてきました。
そのときから何度も教えられていたのがこんな言葉。
「なによりも信頼が大切。」
「そして大事にしている考え方は生産者もいい、働く人もいい、お客さんもいい、三方よしの会社であること。」
そんな教えが基板にあったからこそ、安価な外国産の原料が多く出回り始めても国産の材料にこだわり商品を作り続けました。それは会社が大切にしている信頼と三方よしの考えを今でも大切にしているからに他ありません。
OEM商品を中心に展開している讃岐缶詰。発注を受け続けているのはやはり確かな技術と信頼があるからこそだと感じました。
真っ赤な小原紅早生。取材に伺った1月が丁度収穫時期。たくさんの小原紅早生がコンテナで運ばれていました。
果実は更に大きさごとに手作業で選別し缶につめられます。
スタッフの人たちはそれぞれ担当行程が決まっているそうで
「どの人もね、もうずっとこの仕事に携わっていてベテランがとっても多いんです。」
スタッフの人たちは勤続年数も長いそうで、工場を案内してくれた方の少しはにかんだ、でも自分の仕事に誇りをもっているような笑顔が印象的でした。
シャキシャキ嬉しい歯ごたえ。
大粒のえのき茸とたけのこが、たっぷりはいったなめ茸は、ホカホカの炊きたての白米に乗せて食べるとそれだけで充分に御馳走。それだけでご飯が何杯も進みます。
三つの豊かと書く「三豊(ミトヨ)市」。香川県の西に位置するこの地域は、香川県の中でも有数の農業が盛んな地域です。この地域で採れたものにこだわり食品加工を続けている会社が今回取材に伺ったミトヨフーズです。
ミトヨフーズの位置する三豊市財田町。徳島県との県境一体にかけて存在する猪ノ鼻峠を含む自然豊かな山の景色が広がります。ミトヨフーズのロゴマークの三つの丸は、そんな自然豊かな三豊の水と空気と大地を表現しているそうです。
ミトヨフーズの工場の裏は、田んぼと竹林、そして山という景色が広がる自然豊かなロケーション。ミトヨフーズの商品には、こんな豊かな環境の元で収穫された筍やえのき茸、また三豊市詫間町の荘内半島で栽培された香川本鷹が使用されています。
「地元のよいものを、もっと沢山の人に知ってもらいたい。地元のものを使っておいしい食品を作りたい。」そんな想いから先代の社長はミトヨフーズを始めます。だからこそ地元の素材の美味しさを最大限に引き出せるよう、そして家庭の懐かしい味を再現できるようにこだわって作られています。
昔から有名な財田の特産品、筍は地元の農家さんが朝、掘ってきたものをすぐに蒸すことで、筍の旨味が凝縮させます。昼間に収穫したものや、収穫してから時間のたった筍は、アクによるえぐみが増してしまうからです。筍を持って来てもらう農家さんは土の手入れをしっかりしている農家さん。土の手入れが施された筍は柔らかく育ちます。地元だからできる農家さんとの連携で素材の味を最大限に生かす加工方法で作られた筍は、素材の良さを味わってもらえるよう大きくカット。
えのき茸はミトヨフーズの近隣にあるえのき茸を作っている会社から仕入れ、新鮮なうちに加工します。大きくカットすることで、食感が残るように工夫しています。
炊きあがったばかりのなめ茸はそのままご飯に乗っけて食べたくなってしまう良い香り。
社長を含め全従業員7名のミトヨフーズの商品は、1回ごとに窯で炊上げ作っているため大量生産はできません。また炊上げ作業は社長自らも担当し、火の入り具合を調整します。まさに手作りの加工食品の会社、ミトヨフーズ。三豊の味がぎゅっと詰まった味をお楽しみください。
約300年以上前。元禄2年、高松藩藩主が朝廷の装束方御用を務めていた織物師・北川伊兵衛常吉に、新しい絹織物の製作を命じ、作られたのが保多織の始まりです。
以来、保多織は幕府への献上品としても使われるようになりました。
保多織の技法は、一子相伝の秘法として北川家で6代に渡り伝えられ、明治維新後、北川家の血縁にあたる岩部家がその技法を継ぎ現代に至ります。
高松市内の中心部、かつて高松城の城下町だった場所に岩部保多織本舗の工房はあります。
工房と店舗が一体となった建物の中は、棚一杯に保多織製品が並びます。
店舗奥の工房では、保多織を縫製するミシンのリズムカルな音が響き、店舗では訪れるお客さんと岩部さんの話声が聞こえる、なんとも心地いい空間です。
創業120年の岩部保多織本舗の4代目、岩部卓雄さんにお話を伺いました。
「1反、手作業で織り上げるのに大体8日間。手織りの発注があったときは、日中はお客様や電話の対応などで集中できないので、大体夜に作業します。」
店内におかれた織り機。この織り機は、遠方での展示の際に持参する織り機で、解体し、コンパクトに持ち運びができるそうです。
綿の保多織は、小巾の自動織機と、シーツも織れる大きな機械で織られています。
「機械とはいっても昔からずっと使っているものでしょ。糸の張り具合の調整など、この機械を操るのが大変なんです。調子をくずしたら修理するにも一大事。」
「代表もまだ小さいお子さんがいるため色々考慮してくれ、お母さん達にとってとても働きやすい職場なんです。」と笑顔で教えてくれました。
糸の張り具合、織り具合、すべて機械によって異なるため、目で、手で確認をする必要があります。そして、今ある機械を大切に使い続け、後世に残すことも重要な仕事の一つです。
織り機には糸が一本一本小さな穴に通され、それで経糸を操作して織り上げていく。この作業は展示の際に持参する織り機でも同じことです。
目を細めなければいけないほどの小さな穴。その穴に糸を通すのも、もちろん手作業とのこと。その大変さを想像し、驚いていると、
「別に驚くようなことではないですよ。昔から普通にしていたことなので。どれも特別なことではなく、昔の人たちが行っていた普通のことなんです。」
と教えてくれました。
保多織の特徴はこのワッフル状になった生地。
普通の平織りの布は縦糸と横糸をすべて交差させますが、保多織は3回平織りで打ち込んで、4本目の糸を浮かせる織り方にあります。こうすることで、生地に空気を多く含み、夏はさらりと涼しく、冬は暖かい生地となります。
保多織は使いこむほどに肌なじみがよくなります。肌に溶けこむようなその質感は、使った人だけが感じることができる、なんとも言えない気持ちよさです。
岩部家に保多織が引き継がれた頃に、それまで絹で作られていた保多織が木綿でつくられるようになります。
「絹は高級品。それを木綿に変えることでより多くの人に使ってもらえるようになった。僕はこの保多織のシーツを、全国の人に敷いてあげたい。そのくらい、この保多織は肌触りがいいんです。」
岩部さんはそうおっしゃいます。
岩部家に引き継がれたことで、私たちの生活に身近になった保多織。
一貫しているのは「より多くの人にこの心地良いものを使ってもらいたい」という本当にいいものを残していこうとする気持ちと、様々な人達にとって心地よい生活品を届けようという思いやりのように感じました。
取材の最中も絶えずお客さんがやってくる店内。
長年、岩部保多織本舗で寝間着を作っているお客さんや、自身の洋服、そして父親へのプレゼントを探しにきたというお客さんなど。
「ここのはね、一度使ったらもう他のものは使えなくなるよ」そう聞こえてきた言葉が、地元の人に愛され続けている何よりの証拠です。