栗林公園の裏山、紫雲山に連なる峰山で養蜂を営む峰山ハチミツに取材に行ってきました。
お話を聞かせてくださったのは株式会社ミネックの社長である天野洋平さん。
もともと株式会社ミネックは浄化槽の設備管理を主にする会社で、洋平さんの代になってから新事業として養蜂業を始められたそうです。
洋平さんとミツバチの出会いは以前勤めていた会社。そこでの出会いから、会社を継ぐために香川県に戻って来られて養蜂を始められることになるわけですが、「すぐに養蜂を始めようと考えたわけではありませんでした。」「いつか養蜂ができたらいいなくらいで、最初はペットとしてミツバチを飼ってみようという気軽なものでした。」
それが今年の7月で、養蜂を始められてから丸7年。
養蜂を始められるにあたって、「養蜂業界では個人事業主として養蜂を営んでおられる方がほとんどのため、明確な養蜂技術の継承方法がなく、独学で養蜂について学びました。」
また、「ミツバチが色々な場所から花の蜜を集めてくるため、他の養蜂家さんがいるところからある程度距離が離れている必要がある。」など養蜂ならではの注意事項があるのだとか。また、「養蜂をやってみたいという人は多くいるものの、考えていた以上に大変で途中でやめてしまう方が多いのが実情です。」洋平さんも最初、養蜂をしている知り合いの方から、「養蜂は難しいぞ。」「毎年決まった量が採れるわけじゃないから、ストックは持っておいたほうがいいよ。」とアドバイスされたそうです。幸い「いまのところ極端な量の変化はなくきています。」ただ「自然のものなので全く採れないこともあるのかもしれないなとは思っています。」
ここで、そもそもミツバチがどんな生活をしているのかをお聞きしました。ミツバチが花の蜜を集めて、いわゆるハチミツを作っていることは知っていても、その生態については全くといって知りませんでした。
ミツバチのグループを構成するのは「1匹の女王蜂と数パーセントのオスバチ、90%以上が働きバチです。」ちなみに働き蜂はすべてメスで、オスは採蜜を行わないそう。では何をしているかというと、交尾のみしています。
女王蜂は最初から女王蜂として生まれてくるのかと思いきや、巣の中にある王台と呼ばれる場所に産み付けられた幼虫が、ロイヤルゼリーを食べ続ける(他の蜂も生まれてから3日目までは食べるもののそれ以降は花糖と花粉に変わる)ことで女王蜂になるのだとか。
次に1年間のサイクルとして「2月ごろは5000匹くらいですが、5月のゴールデンウィークの後には5万匹くらいで約10倍に増えます。短期間で増えるので時期によってハチミツの採れる量が違ってきます。」
「若い蜂は巣の中の作業だけで採蜜には行かないんです。生後2週間くらいたってからハチミツを採りに行くようになります。」
生後2週間。そもそもミツバチの寿命はどれくらいなのかをお聞きすると、「採蜜を行う働き蜂は40日くらいです。」つまり1シーズン中にも働き蜂は世代交代が行われていることになる。なので「ハチミツは実はすごく貴重なものなんですよ。」と洋平さん。
ミツバチの大敵はスズメバチ、特にひときわ大きいその名もオオスズメバチ。そしてダニ。スズメバチは人にとっても正直出会いたくない蜂ですが、ミツバチにとってはまさしく生命にかかわる存在。そのため、「春先のうちにできるだけスズメバチの女王蜂を駆除します。」それでも当然完璧ではなく、秋にもスズメバチを駆除する必要があるそうです。
そして、もう一つ厄介な存在なのがミツバチの卵に寄生し、卵の養分を餌とするダニ。採蜜を行わない時期に2種類くらいの薬を交互に使用して駆除をするそう。交互にする理由は薬に対する耐性ができてしまうため。ただ、完全に駆除できる薬が今のところなく、毎年多くのミツバチが命を落としているそうです。
昔はダニはそこまでいなかったが、増えてきているという話もあるそうで、原因はよくわかっていないようです。「薬の開発は今後の養蜂にとっては一つの大きな課題」だとおっしゃっていました。
自分で世話をすることで、そこからいろいろと学ぶことが多いそうで、一例として、「蜂は黒色に反応して攻撃を仕掛けてくるといわれていますが、黒色のものを身につけているからといってすぐに攻撃をしかけてくるわけではなく、怒らせてしまったときに初めて、黒色に目がけて攻撃をしかけてくることに気が付きました。」
刺されることはないのかお聞きしたところ、「刺されるときは10発くらい刺されます。」
今回の取材中にも1回刺されておられましたが、平然とされていたので大丈夫なのかお聞きすると、「結構痛い」とのこと。ただ「痛いからと騒いでしまうと、ミツバチが余計に興奮してもっと刺される」のだそう。
では、どんな時に刺されるのか。
「ミツバチの機嫌が悪いと刺されやすいです。寒い日や風が強い日などは特に機嫌が悪く、逆に暖かい日には機嫌がよい」とのことでした。ちょうど取材の日も少し肌寒いときでした。
次に峰山ハチミツの特長についてお話しを伺いました。
すっきりした甘さと香りの良さが特長で、峰山ハチミツのハチミツはすべて百花蜜。
「時期によってヤマザクラ、ニセアカシア、ミカン、ハゼの花、モチノキ、アカメガシワ、百日紅などの花の蜜が混ざっています。」しかし峰山ハチミツでは「花の種類ではなく、ハチミツが採れた季節や時期を明記するようにしています。」これは「採れた時期によって風味が違う」からだそうです。実際、購入されるお客様の中には採蜜された時期を指定して購入される方もいらっしゃるのだとか。(在庫がある限りは提供できる。)
「ハチミツというのは養蜂家が作っているわけではなくミツバチが作っています。そのお手伝いをしているのが養蜂家」なので「天然のものでコントロールすることは難しい。」
なので「味わってみて好きだな、と感じたものを選んでくれたら。」そして、「毎年の違いを楽しんでいただけたら。」と洋平さん。
次におすすめの食べ方もお聞きしました。
「難しい質問ですね。」と前置きしつつ「ベストはハチミツバタートースト。これは絶対なんですよ。」と少し力を込めて答えてくださいました。
ほかにも「ドレッシングに使っていただくのもおすすめです。玉ねぎとにんじんをすり下ろしたものと、醤油と酢とオリーブオイルを入れて混ぜ合わせて完成です。」「サラダにかけると野菜の風味から始まって、後味にハチミツの花の香りがほのかな余韻として広がる。」のでドレッシングとして相性がいいのだとか。そういう意味で「ソースにいれても面白い。」とも。
保管に関しては「冷蔵庫に入れると結晶化してしまうため、机の上(常温)に置いておいたほうがいいです。また、容器からすくい取る際にはキレイな乾いたスプーンですくってください。水がつくと糖度が下がり発酵してしまうことがあるので。」とアドバイスをいただきました。
最後に「峰山という自然の中にある環境を活かした、現在養蜂とは別に行っている探検隊という子どもたち向けのイベントも含めて、観光農園のような形で訪れる人に楽しんでいただけるような展開をしていければと」今後の展望も語ってくれました。
ミツバチに刺されることもある中での養蜂についてお聞きしたとき、「憎たらしいです、手間もかかりますし。でも世話をした分、返してくれるので。子どもと一緒ですね。」と少しはにかんだように語ってくださったのが印象に残っています。
新商品の構想もあるそうなので、今後の展開が楽しみです。
昭和の頃には、春先から端午の節句にかけて日本各地で大きな鯉のぼりが大空を泳いでいた。
しかし今では、鯉のぼりをあげている家は少なくなってきている。
今回、坂出市のご自宅で手描き鯉のぼりを制作している「手描き鯉のぼり 三池」さんを訪ねた。
もともと奥さまのご実家が製造業を営んでおり、三池さんは元々はサラリーマン。三池さんが本格的に鯉のぼりを作り始めたのは57歳の時、お義父さまが亡くなられてからの事。それまでは、お義父さまが依頼を受けて、小学生たちに実演を行う際にお手伝いをするくらいだったそうだ。
それが、いまでは20年近く手描き鯉のぼりを作りつづけている。なにか特別な想いがあるのだろうと思いきや、「使命感があったわけではありません。ただ次の世代への繋ぎになれれば。」と笑う。
鯉のぼりの素材は昔ながらの和紙。明治ごろは和紙のものが多かったそうだ。布製の鯉のぼりもあったが、戦後しばらくまでは物資不足もあり、和紙の鯉のぼりが主流だった。
「和紙を貼り合わせて、鯉の形に裁断、成形して大きな鯉のぼりにしていました。」と奥さま。
ここで、そもそも鯉のぼりがどんな経緯で生まれたのかに触れておきたい。
江戸時代、武士が端午の節句に家紋の入った幟や吹き流しを飾る習慣があった。それを、一般の庶民がまねて鯉のぼりをあげたのがはじまりだと言われているようだ。なぜ鯉なのかについては中国の故事が由来だとされている。「登竜門」ということばにもなっている、中国の黄河にある龍門。そこを登り切った鯉は龍になる、と言われていることから、鯉の滝登りは立身出世の象徴であり、それを模した鯉のぼりにも、跡継ぎに対する立身出世への願いが込められているのだろう。
話を戻して、奥さまのご実家のお店について、その歴史を見ていきたい。先々代で創業者の山下さん(奥さまの旧姓は山下さん)が播州、いまの兵庫県で鯉のぼり作りを学び、そのノウハウを持ち帰ったのが始まりだという。
しかし、鯉のぼり屋といっても、年間を通して鯉のぼりだけを作っていたわけではなく、「鯉のぼりは季節ものなので、季節によって凧や灯籠なども作っていた。和紙や竹ひごなど使用する素材が一緒だったから。」とは奥さま。
奥さまも子供の頃からお父さまのお手伝いされていたそうだ。
「分業で製作していたのでご家族と従業員の方を合わせて10人くらいで分担しながら製作していました。」
三池さんによると「当時は皆、絵が描ける人たちばかりでした。お義父さんは下書きもせず、感覚で描いていました。」ならば絵を描く事が好きだったのかと思いきや、「好きというよりは、職人だったから。」と奥さま。職人として経験を積んだからこその技だったのだろう。
また、鯉のぼりに纏わるこんなエピソードを語ってくれた。
以前は一般的に母方の実家が鯉のぼりを用意していた。立派な鯉のぼりをあげることが1つのステータスであり、立派な鯉のぼりをあげると、「良い嫁がきてくれた」と言われていたそうだ。ところが、だんだんサイズが大きくなってしまい、最終的に「競争になるから、鯉のぼりは揚げるな。」なんてことになってしまった地域もあったという。
昭和のバブルのころには、海外へも輸出されていたという。
「製作した鯉のぼりにMade in Japanの印を押して、輸出していました。」
端午の節句にあげるためではなく、「玩具」として輸出され、パーティーの飾りやタペストリーなどのインテリアとして流通していたようだ。アジアのエキゾチックでオリエンタルなデザインがウケていたのであろう。
瀬戸大橋が開通した際には、記念公園で家族総出で実演販売を行なったそうだ。
「あれが大きなイベントとしては最後だった」と懐かしそうに語る。
いまでは住宅地やマンション住まいなど生活環境の変化、端午の節句に対する価値観の変化によって、鯉のぼりをあげることが少なくなっている。
そんな現状に三池さんは、「子どもの頃に鯉のぼりをあげていた年配の方には、鯉のぼりへの郷愁があると思います。玄関先などに飾って季節を感じていただければ。」と語る。
そんな思いから三池さんの代に誕生したのが、栗林庵でも販売している卓上サイズの小さな手描き鯉のぼりだ。
「お義父さんの代まではここまで小さなサイズの鯉のぼりを作ってはいませんでした。お客さんの要望に応えていたら、いまの形になったんです。」
土台の木は資材屋で買って来た材木を、三池さん自身で成形しているそうだ。
鯉のぼりの口部分と木の支柱に巻き付けてあるワイヤーは別々になっている。支柱側のワイヤーは「く」の字型でそこに鯉をはめて固定しているので、鯉を引っ張ると簡単に外すことができる。これは普段コサージュ等を作っておられる奥さまのアイデア。
「手芸用のワイヤーを使ってこういう形にしてみたらって」と奥さま。
お二人の共同作業によって、いまの形が出来上がった。
以前は顔料を使って彩色していたが、鯉のぼりのサイズが小さくなったので、いまではアクリル絵の具と墨汁で小さな鯉のぼりにひとつひとつ丁寧に鯉の姿を描いている。その細やかな仕事から、「印刷しているのでは?」とおっしゃられる方もいるのだという。
そんな三池さんに奥さまは「とても細かいところまでこだわってつくっているので、工程見本をつくっておかないと次の世代が同じように作れない」とほほ笑む。
しかし今後の展望について、「後継者の問題もあり、手描き鯉のぼりが継承されていくかどうかはわからない」と三池さんは語る。
鯉のぼりは当初、歌川広重の浮世絵に描かれているように真鯉一匹だった。それが時代の流れの中で緋鯉が増え、今では青や緑の鯉もいる。子どもを意味した真鯉がお父さんに、緋鯉がこどもに。今では緋鯉はお母さん、その下にいる小さな鯉が子どもたちにそれぞれ変化している。
鯉のぼりは、その誕生から現在まで、時代に合わせて変化を続けてきた。ただ子を想う親の気持ちは変わらないはずだ。
大空を泳ぐ姿は雄大で美しい。
一方で、小さな和紙の手描き鯉のぼりには素朴な風合いと愛らしさがある。いまのライフスタイルに合わせて生まれた小さな手描き鯉のぼり。お子さんのいる家庭で端午の節句に合わせて飾るのはもちろんのこと、季節の風物詩やインテリアとして飾ってもいいかもしれない。三池さんの作る鯉のぼりの最大の魅力はここにある。気軽にそして手軽に、日本の風物詩を味わうことができる。
バブルの頃海外に輸出されていたと先に述べた。栗林庵には海外からのお客様も多い。日本的なお土産を求められる方にとっては最適なアイテムの一つだ。また、逆に日本から海外へ行くので、何か良い手土産はないかと探しているお客様も意外と多い。日本的かつコンパクトで持ち運びがしやすい小さな手描き鯉のぼりはそんなニーズにも答えてくれる。大空は泳がないかもしれない、しかし空を飛んで異国の地にたどり着くのだ。
昔を懐かしんで、子どもの健やかな成長を願って出産祝いやお誕生日の贈り物として、また新築祝いや引っ越し祝いなどのギフトにもぜひ活用してほしい。後継者問題は気がかりではあるが、手描き鯉のぼりにはこれからも子どもたちの成長を見守ってほしい。
香川県の中心にある高松港からフェリーに乗って1時間、観光地としても人気が高い小豆島に辿り着きます。
小豆島は豊かな島です。オリーブの植樹に日本で1番最初に成功したことから、産業にはオリーブオイル、オリーブ加工品の生産、手延べそうめん、醤油、佃煮など気候風土にあった美味しいものがたくさん作られています。
海があり山があり温暖な気候なので都会からの移住者も増えている人気の島です。
ちょうど取材に伺った際は瀬戸内国際芸術祭2019の会期中。たくさんの観光客の方を見受けました。
今回訪ねたのは小豆島でこだわりの塩を作っている「波花堂」。
穏やかな海が近い静かな場所に製造現場はあります。
「波花堂」の主、蒲 敏樹(かば としき)さんは海のない岐阜県出身。
なんと小学5年生の夏休みの自由研究では「塩づくり」をテーマに提出していた過去がありました。
大人になって岐阜で土木関係のお仕事をしていた際、あまりの忙しさに体調を崩してしまったことが奥様と自分たちらしい生き方を模索するきっかけになり、移住先の候補地として色々な土地を巡った結果、目の前には海、背中には山がある小豆島に決めたそうです。
塩づくりに欠かせないのは海水。
まず、島の中でも澱みの無い清浄な海水を汲むことが出来る静かな浜を選びました。小豆島町田浦の澄んだ海水を汲み上げます。
浜の近くに蒲さんが設計し、地元の大工さんに建てていただいた小屋があります。そこで海水の水分を飛ばし、「流下式塩田」という方法で濃い塩水を作ります。
上から塩水を落下させ「支条架(しじょうか)」と呼ばれるネットを通し衝撃を与える事でよけいな水分を飛ばし、蒸発を促して早く塩になる為の大事な工程をおこないます。この工程で海水中の塩分濃度を3〜4%から10%程度まで上げて濃縮した「かん水」を作ります。現在2基の塩田装置があります。
塩づくりで大変なのは、季節に応じて作り方が異なること。
気温、湿度によってかかる時間、作業量が変わってきます。
夏場は早く蒸発するので1週間、冬場は2週間と出来上がり方に時間の差が出ます。
ここでできた「かん水」をすこし離れたログハウスのような雰囲気のある小屋に運びます。
ここでは、薪をくべ、水分を蒸発させる鉄釜に「かん水」を炊き上げます。
その作業を「煎ごう」と言います。
釜に火をくべる際の薪は椎茸を穫り終えた原木や佃煮の原材料が入っていた木箱など使用しています。
この煎ごうという作業中は火は絶やすことが出来ません。天候に左右されながら火を入れていきます。また火を止めてしまうと鉄釜がさびてしまいます。塩作りに必要な鉄釜は塩水と鉄が化学反応をし、火の強さ、蒸発具合を見ながら先に結晶化していくカルシウムを取り除いていきます。
蒸発して減っていくかん水を継ぎ足しながら1〜2週間かけて塩の結晶を取り出していきます。
その後、杉樽に塩水を移し寝かせます。こうして全体をなじませ塩の味を均一にします。その後、水分とにがりを抜いて塩の結晶を取り出します。
取り出した塩は作業場で水分をとばし、ふるいにかけて粒を揃えていきます。
この作業場はとても良い場所で小高い場所にあり、窓からは小豆島が眺める事が出来るように設計したとのこと。小豆島の自然豊かな環境で海を眺めながらうまれたての「御塩」の袋詰めを行ないます。何とも羨ましい作業場です。
この作業場は元、大家さんの敷地に現存していたたばこの葉の乾燥蔵をガルバニウム外装を施し、清潔感があるおしゃれな秘密基地のようにリノベーションされています。
湿度によって塩自体の重さが変わってきますので作業場は常にエアコンをつけている様です。
蒲さんはとてもシンプルで自然の恵みを楽しみながら丁寧な暮らしをされています。広い庭、畑にはすもも、梅、ゆすら梅、栗、みかん、レモン、朴葉、茶、ハーブなど色々なものが実り、育ちます。裏の山では山菜採りもできるそうです。
奥さまが庭の梅と「御塩」で漬けた梅干しをいただきました。とても味が深くやみつきになる梅干しでした。
またご自宅では麦みそも作られていました。香りがとても高くすごく美味しいお味噌汁ができるんだろうな。と想像ができました。
過去には漁師の方にたくさんのいわしをいただき、「御塩」で漬け込み、自家製ナンプラー(魚醤)をつくられたこともあるんだそう。地産地消の極意ですね。
生活して行く中で小豆島の人々に助けていただき、支えていただき、豊かな自然に守られながらたくさんの「縁(えん)」を感じ、商品名は「御塩(ごえん)」と名付けられたそうです。蒲さんは小豆島で生まれた「御塩」はどんなに希少になったとしても必ず小豆島、香川県では買えるようにしたいとおっしゃっていました。地元で買えなくなるという本末転倒な事が起きないように気をつけたいとのこと。私たち栗林庵でも取り扱っている商品は香川県の皆さまに普段使いとして愛用していただき地元の商品の良さを再認識していただきたいと思ってお店を運営しているので同じ思いを感じました。
蒲さんは「御塩」を野菜、魚料理にぴったりですと教えてくれました。素材を引き立たせる塩。それは塩の粒が大きすぎず、小さすぎず、噛んでいる間に塩味が継続されるからとのことでした。岩塩のように粒が大きく溶けづらいと長く塩味が続くのでそういう塩は肉に合うそうです。
普段使いには天ぷら、おにぎりに抜群です。
小豆島産のオリーブオイルと御塩で旬の野菜をいただくのは最高ですね。
自然の恵みを最高の調味料でいただける幸せを皆さんも味わってください。
高松市中心部から屋島を越えて東に向けて車で30分ほど走った所にうどん本陣 山田家はあります。近くには四国八十八ヶ所札所の八栗寺やイサム・ノグチ庭園美術館などがあります。お店が近づいてくると電信柱に貼られた山田家の看板が目に留まります。
駐車場に車を停めると登録有形文化財にも認定された趣のあるお屋敷が目の前に広がり、その奥にはかつてお酒の醸造所であった時の名残りであるレンガ造りの煙突を望むことができます。また庭には庭師によって丁寧に手入れされた四季折々の木や草花が植えられており池には鯉が泳いでいます。
店内のいたるところに創業者の山田潔さんの叔父でもあった和田邦坊さん※による暖簾や提灯、直筆画などが目に入ります。このような落ち着いた環境の中で食事できるということが山田家の大きな魅力のひとつです。
※和田邦坊(1899〜1992)
琴平町出身。新聞記者、漫画家、画家、商業デザイナーとして大正から昭和にかけて活躍したクリエイター。風刺画「成金栄華時代」が代表作。栗林公園商工奨励館勤務ののち讃岐民芸館の初代館長に就任。現在も残る香川県を代表するお土産のパッケージを多く手がけた。
そもそも山田家の始まりは潔さんが脱サラした時にさかのぼります。もともとは江戸時代末期から続く由緒ある山田家の邸宅でしたが、当時サラリーマンだった潔さんが今後この邸宅を維持していくためにはどうするべきか叔父である和田邦坊さんに相談したところ、「おまえの好きなことで商売したらええやないか」とアドバイスをもらい、元々好きだったうどんを選びお店を開くことになったそうです。
看板や暖簾、提灯などの店舗内装やお土産用うどんのパッケージだけではなく、味付けや麺の太さなども含めてうどんのメニュー自体も邦坊さんが実際に食べて意見を出しました。総合プロデュースとでも言えばいいでしょうか。(このインタビュー記事の冒頭にある電信柱の看板も一番目立つ色ということで橙色にしたそうです。)
また、香川県民にはおなじみの山田家の紙袋。実は紙袋には山田「家」ではなく、山田「屋」と記載されています。この山田「屋」という字、邦坊さんが言うには正式な「家」ではなくあえて「屋」にしたとのこと。理由は二つあり、一つ目は口に出して山田「け」ではなく、山田「や」と読んでもらうため。もうひとつは「家」よりも「屋」の方が字面の見た目が安定感があるからとのこと。通常ならNGとされることをOKとするおおらかさは邦坊さんならではかもしれません。
初めて来るお客様が驚くのが、店内のスタッフがインカム(ワイヤレスの通話装置)やハンディ(注文などを管理する携帯端末機)などの機器を使用していること。趣のある建物や雰囲気からは意外に思えるかもしれませんがそれが山田家のサービスの秘訣です。インカムで連携し駐車場に入って来る車の数をすばやく厨房に伝達し、注文が想定されるうどんを直ちにゆでて、少しでも早くご注文いただいたお客様に出せるように工夫しています。釜揚げうどんをご注文いただいたお客様からはあまりに注文してから出て来るまでの時間が早いので湯だめの時間が経ったうどんを出されたと勘違いされることもあるそうです。(笑)お客様へのサービスの向上のためにはハイテクな電子機器も駆使します。
年2回発行するカタログ「山田家倶楽部」は自社で制作を行っており、写真撮影は広報担当の方が行い、社長自らが写真撮影のサポートをすることもあるそうです。
カタログ内で使われる写真を見ていると食指が動きます。ここまでこだわったカタログを自分たちで作るうどん店もなかなかないのでは。
ここ最近特に人気があるのが冷凍タイプの個食鍋。うどんすきやカレーうどんなど手軽に贅沢な1人前のうどん鍋が出来上がります。
ずっと永く続く山田家の味。小麦の原材料の産地は変わることもあるため、そのブレンド具合は時代に合わせて細かく調整しているとのこと。潔さんと奥様がチェックし「山田家の味」という大枠は変えません。
また、セルフのうどん店とは違って、家族でゆっくり過ごしたり、県外からの友達やお客様を案内したりと落ち着いて過ごすことができます。小さいお子様への椅子や食器などの気遣いも忘れないのでお子様連れの家族の方にも安心です。
県外から来たお客様はこの味とボリューム、このお店の雰囲気でこの値段?と驚く方も多いそうです。価格以上の価値を感じさせてくれるのも、ずっと守り続けてきた山田家の味や地道に積み重ねて来たお客様一人ひとりへの信頼や安心感があってこそだと感じました。
それらに加えて他のうどん店にはない建物や環境、和田邦坊の作ったパッケージや作品も含めたそのトータルでの”世界”が山田家の魅力です。
そんな山田家の味を手軽にご自宅でも味わえるように作られたお土産用うどんをぜひお試しください。
日本国内の手袋製造の約9割をしめるといわれる香川県東かがわ市。有名な海外ブランドや著名なスポーツ選手のオーダーメイド手袋なども数多く手がけている日本一の手袋産地です。
今回は栗林庵でも毎年大人気のありそうでなかった「てぶくろ屋さんがつくったもこもこソックス」シリーズを作っている株式会社フクシンさんにお邪魔しました。
フクシンは現社長である福﨑二郎氏の叔父が設立した福崎手袋から独立する形でお父様の福﨑清氏が1977年に創業しました。2018年10月現在の卸先は500社、4,000店舗にものぼります。手袋の商品ラインナップは大きく分けてニット商品と縫製商品(パーツをつなぎ合わせたもの)ですが、その両方の系統を持っています。
またフィリピンのセブ島にあるメプサという自由貿易区にも自社工場を持ち、最近はアメリカやヨーロッパの展示会にも力を入れるなど、海外へも目を配っています。
写真は裏起毛するための機械。チーゼルという植物の花の部分を使って起毛を行います。花の大きさが均等になるように栽培時に間引いたりしないといけません。
チーゼルを取り付けた部分を回転させ、そこに手袋などを押し当てることによって起毛させます。ほどよく起毛させるには熟練した技術が必要です。このようにフクシンの商品には人の手がかかせません。
フクシンさんの商品をつくるためには株式会社島精機製作所の専用のプログラミング用ソフトを使います。このソフトを使いこなすには島精機製作所で最低3ヵ月の研修を行わないといけないそうです。画面上で色分けされたものは糸の色ではなく実は編み方を指示するものだそうです。素人の私たちにはどういう仕組みになっているかさっぱりわかりませんでした。笑
手袋は季節商品なので本格的な出荷が始まる前の8月末から9月半ばまでの期間は倉庫は出荷を待つ商品でいっぱいです。手袋販売業を行うためにはこのように広大な倉庫スペースが必要です。創業当初、スレートと呼ばれる波状の壁1枚だったフクシンさんの社屋は、業績が上がるにしたがって増築を重ね、現在のように大量の在庫をストックできるようになりました。
また現在はコンピュータで管理され、ピッキングから、検数、検品、発送まで一貫したシステムでスムーズに対応できるそうです。
フクシンさんがこだわるのは一つひとつ愛情を込めて作ること。高価な機械を使って手袋や靴下を編み上げますが、不良箇所がないかチェックしたり、タグ付けや袋に入れたり、最後には人の手が入ります。
目落ち(網目の抜け落ちたところ)や傷がないかチェックするという作業には自分たちで自作して改良を重ねた道具を使います。
モコモコソックスは手袋を作っている機械を使って作るため、つなぎ目がなくシームレスなので履き心地がとても快適です。
製造は1台の機械で最初から最後まで編み上げるため1足を編み上げるのに30分~60分もかかります。
モコモコソックスは今年で販売4年目ですが、去年は売れすぎて生産が追いつかないほどだったそうです。突然のヒット商品ができたことにより、はじめて自分たちのキャパシティーを知ることになりました。「当たり前のことですが、作れるもの以上のものは売れない」ということを身をもって知ったそうです。
社員のみんながフクシンの商品や仕事を通して明るく元気な生活を永く続けることができるようにしたい。それが福﨑社長の願いです。
この変化の早い世の中でネット販売など時代に合わせて変化することは必要ですが、その反面、愛情をかけて作った商品がお客様に求められるというところは昔から変わらないはず。そこを大事にし、これからも1つ1つに愛情を込めてお届けしたいとおっしゃっていました。