麦茶の美味しい季節がやって来ました。
香ばしい、香りの麦茶は、麦を炒って作られます。
香川を含む瀬戸内海は昔から麦の一大生産地。
雨に弱い性質の麦は、温暖で雨が少ない地中海性気候の瀬戸内海地域と相性のいい穀物。麦は、讃岐うどんの原料としてなじみある作物で実際に麦秋の季節になると、主に善通寺市・丸亀市・坂出市・仲多度郡・綾歌郡あたりの中讃地域を中心に香川県内のいたる所で風に揺れる黄金色の麦畑を目にします。
そんな麦の一大生産地、讃岐のはだか麦「イチバンボシ」だけで作ったのが「ほんまもん麦茶」。
ピーク時は1万ヘクタールを超えた麦畑も、高齢化や食の嗜好性の変化で今では約2000ヘクタール、約5分の1ほどの作付け面積まで減っているのが現状です。
そんな現状を打破しようと、平成14年にJA香川県とコープかがわが共同開発して生まれたのが「ほんまもん麦茶」。
今回、開発から販売に携わるJA香川県、茶流通センター所長の﨑川 和雄さんにお話を伺いました。
﨑川さん、JA香川県のお茶流通センターにずっと勤務されていて、お茶に携わること35年。
県内のお茶の栽培指導に始まり、出来上がった茶葉の競りから、物流まで、そのお仕事は多岐にわたります。
そしてご自身も兼業農家。土日のお休みは、お住まいの塩江でお茶の栽培をされています。塩江といえば、生産量こそ減ってしまいましたが、県内でも良質な茶が収穫される地域。日本茶インストラクターの資格も持っているそうで、まさにお茶づくしの毎日。讃岐のお茶のエキスパートと言っても過言ではありません。
「100%、香川のはだか麦でつくった麦茶。素材が良いため、麦を焙煎するだけで十分美味しい。何ちゃする必要はないんです。」
香川県のはだか麦の品質は全国でも1、2位を争うほど。一般的に麦茶は大麦を原料にしますが、ほんまもん麦茶は、はだか麦を使用しています。はだか麦は外皮がほとんど混入しないため、焦げた匂いや雑味、イガイガ感がなく、麦の甘みが引き立ちます。
甘く優しいさっぱりとした味わいが特徴で、県内はもちろん、北は仙台から、一番人気は関西圏と、年々全国幅広い地域からご注文やお問い合わせがあるそうです。
特に人気の麦茶パックは香川県産のはだか麦「イチバンボシ」のみを使用、姉妹品の「ほんまもん緑茶」のペットボトルに使用されている緑茶も香川県産の一番茶を100%使用と、とことん原料にこだわっています。かといって、1つが何千円何万円というように高価なわけでもありません。
それは、良いものでも手が届かない価格では意味が無く、本当に良いものを多くの方に届けたいという思いからの価格設定だそうです。
材料にこだわり、けれど手に取りやすい価格で提供するということは、消費者はもちろん、麦の生産者も自身が育てた麦が商品として人々の手に渡る場面を目にすることにもなるため、生産者にも更なる喜びをもたらします。
香川県のはだか麦、他にはお味噌や醤油、焼酎などの原料になっています。
「素材そのものがいい。何も加えていないから美味しいんです。」
麦茶のこだわりはやはりはだかムギそのものの素材の味。
それが味の決め手の9割で残りが焙煎の仕方。温度と焙煎時間にこだわり、ムギの甘みを最大限に引き出せるようにしています。
シンプルな手法で作る贅沢な逸品、夏はもちろん、1年を通してご家族皆さんの愛飲品としてお使いになる方々も多くいらっしゃるそうです。
大きく口を開いた張り子の虎は、笑っているようにも見えます。
なんだか憎めないとっても愛嬌がある表情の虎が田井民芸さんの作る張子虎です。
田井民芸さんは讃岐の西部、三豊市にあります。
その三豊市にある仁尾港。
仁尾は江戸時代、荷物の積み出し港、また参勤交代の中継地点として栄えた港町です。
その頃、讃岐のこの地に伝えられたのが張子虎です。
張子作りは仁尾町を中心に栄え、かつては讃岐から大阪に修行へ行ったり、大阪から職人さんが教えにきたりもしていたようです。
「獅子の子落し/獅子は子を産んで三日たつと、その子を 千仞(せんじん)の谷に蹴落(けお)とし生き残った子ばかりを育てる」ということわざにも込められているように、昔から虎は勇猛で親子の愛情が深い動物として縁起が良いとされていました。
かつては日本各地、男の子が生まれた家庭で端午の節句や八朔に合わせて飾られていました。
小さいものは12cm程度、大きなものは子供が乗ることができる1mを超えるものまで。表情も作り手によって、また一つ一つ手作業で作られている為にどれも違います。
取材に伺った1月は5月の子供の日に向けて張り子の製作が最盛期。
大忙しで張り子の製作中。
5代目伝統工芸士、田井艶子さん。
可愛らしい笑顔が印象的な方です。
小さなまめ虎「とらちゃん」から大きな子供が乗ることができるサイズの虎まで、全てのサイズの木型があります。その型に和紙を貼り重ね、虎の形を作っていきます。
木型に貼り重ねる和紙は、新しい和紙だけでは堅すぎてきれいな形にならないため、昔の教科書などの軟らかい和紙も使用しています。
時代とともに紙の質も変わってきているため、新しい和紙と古紙との配合は、その時々に使用する紙の質によって異なります。
そのため、必要な紙を選別し、長年の経験に基づいてちょうど良い硬さになるよう調整し、何重にも重ねていきます。
虎の土台の白いとなる胡粉を塗る前の虎は文字で埋め尽くされています。
昔の作り方どおり、虎のひげには白い馬毛を使用しています。
虎の大きさに合わせて丁寧に選別しされ、形を整えられたひげによって、虎の表情はさらにいきいきとしてきます。
だいたい5層ほどに和紙とのりを塗り重ね、乾かし更に胡粉を塗って虎の色や模様を付けていきます。
1体の張子の完成までに約20日間ほどかかるそう。
手のひらに乗るサイズから人が乗ることができるサイズまで、すべて手作業で同じ工程で作られていきます。
張子の模様や表情は全て手描き。
神経を集中して一筆を進めます。
「昔はね、もっと勇ましくて怖い表情の虎だったんだけど、今はもっと優しい表情の虎になっています。」
元々艶子さんはお嫁さん。張子虎作りを継ぐつもりはなかったそうですが、「先代の手伝いはずっとしていて。先代が亡くなった時にもうやめようかとも思ったんだけど、やっぱり周りの人が続けて欲しいと言ってくださる方が多くて継ぐことにしたんです。」と、周囲の人からの熱意に応え、作り続けているそうです。
作り手によっても表情が全くことなる張子虎。
田井さんの作る虎達は、どこかおおらかな優しさと愛嬌感じる虎です。
小さな12cmほどの「とらちゃん」は艶子さんが考え出したものだそうで、ネーミングもその姿も愛らしく、いつも身につけ、飾っておきたくなります。
伝統を大切にしながらも、その人らしさがある張子。
田井さんの作る張子虎は、力強さの中にも女性らしい優しさの詰まった虎です。
木目を感じるシンプルな美しいフォルムの器は、そのままずっと眺めていても飽きない佇まい。
まだ使用年月の短い肥松の器は、少し手に残る独特の触感と木ならではの暖かみを感じます。
日本は国土の約67%、3分の2が森林で覆われており、私たちの暮らしと木々の関わりは古くから切っても切り離させないものでした。
もちろんそれぞれの地域ごと風土に適した木は異なります。
香川といえば、全国の約8割のシェアを誇るほどの盆栽の一大生産地。
盆栽の樹種として昔から使用されているのが黒松です。
その黒松の中でも、樹齢300年以上の油分をたっぷりと蓄えた木の中心部が肥松。
肥松は100年程の時間をかけて色が飴色に変化し、手触りも使用するごとに良くなるという特製を持っています。「親子孫三代続くことでその家が完成し、栄える」とされていた日本の考え方や、松竹梅にも表現される松そのものが持つ吉祥の象徴的な意味合いも相まって、肥松は高級木材として重宝される木材でした。
香川では黒松の育ちやすい環境があり、昔から良質な肥松が採れていたため、大阪や京都など広く出回っていました。
またろくろ仕上げの肥松の木工品も江戸時代から作られており、茶人などに愛好されていたようです。
そんな肥松を使用した木工品を作っているのが、高松市内に工房をもつ有限会社クラフト・アリオカです。
田んぼの広がる、讃岐らしい細いクネクネとした小道添いにその場所はあります。
讃岐式のろくろで挽いた木工品を今でも作る工房です。
「父が木工を始めたのは戦後まもなく。終戦後、兄弟たちが戻ってきて食べるものがないので木の加工を仕事にしたのが始まり。」と工房の成り立ちを教えてくれます。
今回お話を伺ったのは、2代目肥松の伝統工芸士有岡成員さん。
最初は輸入木材を加工し外国に売っていましたが、やがて国内の木の加工をろくろで始めるようになります。
その際に、低調しかけていた香川の漆芸を再興させた人間国宝の磯井如真氏に腕を買われ、氏に提案され作り始めたのが肥松との出会い。
肥松は油分を多く含む特製のため、加工が非常に難しく、高い技術が必要となります。
また肥松の器の制作を後押ししたのが、香川のかつての知事、金子正則氏。
仕上げの油に酸化しにくいオリーブオイルを使用するようアドバイスを受け、いまでもクラフト・アリオカさんの作る肥松の仕上げはオリーブオイルです。
そんな偶然の出会いが重なり、幻とまで呼ばれていた肥松が、今、再び私たちでも手にできるようになりました。
松脂の多い肥松は、ろくろで削っていくと顔中が木屑だらけになってしまうほど。
有岡さん曰く、死んだ木を使ってもだめで、生きているうちに切り出した木でないと、この肥松独特の時間による色の変化は生まれないのだそうです。
しかし、残念な事に、樹齢300年を超える黒松は現在ほぼ入手できない現状。
もしあったとしても、切り出してから20年間以上は寝かせないと使用できないため、「今ある父親の代のストックを使っていくしかない」と有岡さんは語ります。
材料である肥松も、天井付近の軸からベルトを引いた横向きに座るロクロの造りも、讃岐で受け継がれていたもの。
「壊れても人を傷つけることの少ない”木”。
作られているものは人にやさしいものが多い。」
時間の経過と共に味わいが増す、有岡さんの作る器。
日々の暮らしに寄り添うずっと手元に置いていたい讃岐の逸品です。
手まりは1000年以上の歴史を持つ日本の玩具のひとつ。
平安時代から蹴鞠として貴族に親しまれており、長い間上流社会の人々のものでした。
江戸時代に入ると「讃岐三白」の一つ、木綿の生産が全国的に盛んになり、広く民間に浸透します。
糸の色やかがり方に工夫を凝らし、全国でそれぞれの地方独特の作り方・デザインが女性の手によって受け継がれてきました。
しかし、明治になりゴムが普及するとともにゴムまりが主流となり姿を消していきました。
そんな手まりに着目したのが讃岐かがり手まり保存会の生みの親、荒木計雄さんご夫妻でした。
荒木計雄さんは栗林公園内にある讃岐民芸館の設立を香川県に提案し、展示収集の為に全国を奔走した人物です。
「義父自身は、美しい事以上に身の回りにあるもので玩具を作り、おばあちゃんの手から子供にあげていたという、手まりのあり方そのものに魅力を感じていたようです。」
そう語るのは、今回取材させて頂いた、荒木ご夫妻の遺志を受け継ぐ荒木永子さん。
荒木永子さんがまり作りに使う道具は荒木ご夫妻から引き継いだものです。
みかんの空き缶に、大きな布団針、材料も籾殻、草木染めの木綿糸、和紙と、かつて日本の生活の中に当然のように存在していたものばかりです。
草木染に使用するものも、かつて日本の暮らしの中にあったものばかり。
今は、集められるものは自分たちで集め、入手が難しくなった植物は漢方屋さんなどを通じて入手するそうです。
荒木計雄さんが讃岐かがり手まりの調査を始めた当時、讃岐の特に綿花が盛んだった西讃地方には、手まりを作れる人はほとんどいませんでした。
そこで民芸運動の先輩である丸山太郎氏の叔母にあたる人物から、かがり技法の指導を受け、また木綿糸の植物染めは民芸運動家で染織家の外村吉之介氏などに教えを受けながら、讃岐の手まりを復活させ、これを讃岐かがり手まりと名付けました。
1983年、荒木計雄さんの出身地である観音寺市で讃岐かがり手まり保存会を設立。特に計雄さんの出身地の隣町は観音寺市豊浜地区といい、最盛期には20社以上の製綿所が軒を連ねていた綿の一大生産地でもあります。
設立当時、計雄さんの奥様の八重子さんと2人の妹さんで作っていた手まりは、やがて地域の人々にも広がっていきます。
現在、讃岐手まり保存会は事務所を高松市内へ移動し、東京の教室も含め、手まりを楽しむ人、手まり作りに携わる人は300~400人ほどです。
作るほどに奥が深いものでありながら、入口は広く、多くの人に楽しんでいただける伝統工芸、それが「讃岐かがり手まり」です。
讃岐かがり手まり保存会が大事にしている事は4つ。
この4つは昔、人々に親しまれていた手まりである事を満たす条件です。そしてそれは、模様や色合わせにはルールがある訳ではなく、作り手がその季節や自分の感性に合わせ、形を作っていく楽しみがあるということです。
手まりを作る際に一番時間がかかるのが色合わせといって、木綿糸の組み合わせを決めていく作業なのだそうで、ここに作り手の個性が現れます。
作り手がじっくり無心で向き合い丁寧に作られた手まり。
そこには作り手の想いと、木綿糸を草木染めで染める時間、ひと針ひと針糸をかがる時間、色合わせを決める時間、たくさんのかつて日本の暮らしの中にあった、丁寧な時間が讃岐かがり手まりには詰まっています。
荒木八重子さんの作った手まり。
八重子さんはこのベーシックな菊模様が好きだったそうです。
荒木永子さんが考えだした香手まり。
土台手まりもかわいらしいという先入観のない工夫から生まれました。
荒木永子さんは言います。
「讃岐かがり手まり保存会を引き継ぐ中で大切にしているのは『続ける事』。
それは困難な事ですが、作り続ける事、好きでい続ける事、こだわり続ける事。
この3つを大切にしながら、次の世代にバトンタッチできるような関わり方をしていきたいです。」
そう語る荒木永子さん自身がだれよりも手まりと向き合う時間を楽しみ、手まりのかわいらしさに愛着を感じているのでしょう。
「讃岐三白」とは、江戸時代に特に盛んだった讃岐の3つの産業である砂糖、塩、綿を総称した言葉です。
その砂糖とは和三盆の事です。糖蜜を抜いた白砂糖は当時、非常に重宝され、高松藩の特産品として全国に知られるようになりました。
名前の由来は3回盆の上で研いで作られるからとも言われています。
「研ぐ」とは盆の上で砂糖の結晶をより細かくして、糖蜜を抜けやすくするための作業の事です。何度も研がれる事により口に入れると、ほろほろと砂糖が溶け出すやわらかいまあるい食感を生み出しています。
讃岐和三盆の老舗、三谷製糖が位置するのは東かがわ市馬宿。
徳島とのほぼ県境、目の前に瀬戸内の穏やかな風景が広がる阿波街道沿いに三谷製糖はあります。
三谷製糖の創業は1804年。
約200年もの歴史をもつ三谷製糖は増改築を行っていますが、基本的には創業当時そのままの建物と道具を使っています。国の重要有形民俗文化財にも指定されている製糖器具をはじめ、本舗主屋や旧牛舎なども国の登録有形文化財になっています。
取材に訪れた際、8代目女将さんがゆっくり、それでいて凛とした口調で三谷製糖について教えてくれました。
讃岐和三盆の歴史を辿ると、薩摩の黒砂糖へとつながります。
江戸時代初期、砂糖は日本の中では薩摩で作られる黒砂糖が主流でした。やがて幕府は国内での製糖を奨励するようになります。高松藩では藩医の平賀源内がその役を命じられたものの、良質のサトウキビを入手できず、弟子のそのまた弟子の向山周慶までその役は引き継がれます。
時を同じくしてその頃、遍路で行き倒れた旅人を向山周慶が助けます。この出来事に恩を強く感じた旅人は再び、ひっそりと小舟に乗って讃岐の地へサトウキビの種キビとともにやってきます。
そう助けた旅人は奄美の人。
当時、門外不出のサトウキビを藩外へ持ち出す事は重罪です。
「それほどまでに恩に感じていたんでしょうね。」
こうして讃岐の地でサトウキビは、非常に運良く、お米が出来にくい土地にしっかりと根をはります。
現在も三谷製糖周辺にはサトウキビ畑があります。
高松藩でサトウキビが育ったものの、風土が違うため薩摩で作られる黒砂糖の様に固く甘味が強い砂糖にはなりませんでした。
向山周慶をはじめこの土地の人々は、薩摩の黒砂糖に負けない美味しい砂糖の作り方を考えます。そこで思いついたのが砂糖から糖蜜を抜く方法でした。
「当時の記録を見ていく、和三盆の製法を生み出すのに数十年もの歳月を要したようです。道具も、製法も全て自分たちで考え、生み出されたのが和三盆なのです。」
そのときに考えだされた製法を、地元の庄屋5軒が門外不出の製法として引き継ぎます。それが1804年。その5軒の中で唯一現在も経営を続け、その当時からの門外不出の製法を守り作り続けているのが三谷製糖です。
「薩摩の人たちも和三盆の作り方を真似したそうですが、同じにはならかったそう。この土地で作ったさとうきびでないと、この和三盆はできないんです。」
和三盆へ仕上げて行く際に使用されるのが国の重要有形民俗文化財にも登録されている押し舟です。
サトウキビの種キビを土の中へ生けるのは11月中頃です。
春、職人さんが畑に赴き、サトウキビの植え付けの作業も行います。
1年かけて地元の農家さんが育て、12月に収穫。この時期が最も忙しい時期だそうです。
収穫したサトウキビを絞った汁はその日のうちに炊き上げ、白下糖という原料糖にします。
「白下糖作りが始まるこの時期は本当に忙しいです。」
収穫したサトウキビを白下糖へ仕上げる作業は、長いと1月下旬まで続きます。そうして出来上がった白下糖を1年かけて少しずつ和三盆へと仕上げて行きます。
和三盆へ仕上げて行く際に使用されるのが、国の重要有形民俗文化財にも登録されている押し舟。盆で研いで押し舟でじっくりと蜜を抜く、この作業を5回繰り返し、三谷製糖の和三盆が出来上がります。
「ここの土地以外でのサトウキビではできない。ここの土地でしか出来ないものなんです。」
畑に行く所から和三盆へ仕上げて行く行程までを同じ職人さんたちが一貫して行います。そんな職人さんたちの働き方も含め本当にこの土地でしかできない味を作り続けている、それが三谷製糖さんなのです。