約300年以上前。元禄2年、高松藩藩主が朝廷の装束方御用を務めていた織物師・北川伊兵衛常吉に、新しい絹織物の製作を命じ、作られたのが保多織の始まりです。
以来、保多織は幕府への献上品としても使われるようになりました。
保多織の技法は、一子相伝の秘法として北川家で6代に渡り伝えられ、明治維新後、北川家の血縁にあたる岩部家がその技法を継ぎ現代に至ります。
高松市内の中心部、かつて高松城の城下町だった場所に岩部保多織本舗の工房はあります。
工房と店舗が一体となった建物の中は、棚一杯に保多織製品が並びます。
店舗奥の工房では、保多織を縫製するミシンのリズムカルな音が響き、店舗では訪れるお客さんと岩部さんの話声が聞こえる、なんとも心地いい空間です。
創業120年の岩部保多織本舗の4代目、岩部卓雄さんにお話を伺いました。
「1反、手作業で織り上げるのに大体8日間。手織りの発注があったときは、日中はお客様や電話の対応などで集中できないので、大体夜に作業します。」
店内におかれた織り機。この織り機は、遠方での展示の際に持参する織り機で、解体し、コンパクトに持ち運びができるそうです。
綿の保多織は、小巾の自動織機と、シーツも織れる大きな機械で織られています。
「機械とはいっても昔からずっと使っているものでしょ。糸の張り具合の調整など、この機械を操るのが大変なんです。調子をくずしたら修理するにも一大事。」
「代表もまだ小さいお子さんがいるため色々考慮してくれ、お母さん達にとってとても働きやすい職場なんです。」と笑顔で教えてくれました。
糸の張り具合、織り具合、すべて機械によって異なるため、目で、手で確認をする必要があります。そして、今ある機械を大切に使い続け、後世に残すことも重要な仕事の一つです。
織り機には糸が一本一本小さな穴に通され、それで経糸を操作して織り上げていく。この作業は展示の際に持参する織り機でも同じことです。
目を細めなければいけないほどの小さな穴。その穴に糸を通すのも、もちろん手作業とのこと。その大変さを想像し、驚いていると、
「別に驚くようなことではないですよ。昔から普通にしていたことなので。どれも特別なことではなく、昔の人たちが行っていた普通のことなんです。」
と教えてくれました。
保多織の特徴はこのワッフル状になった生地。
普通の平織りの布は縦糸と横糸をすべて交差させますが、保多織は3回平織りで打ち込んで、4本目の糸を浮かせる織り方にあります。こうすることで、生地に空気を多く含み、夏はさらりと涼しく、冬は暖かい生地となります。
保多織は使いこむほどに肌なじみがよくなります。肌に溶けこむようなその質感は、使った人だけが感じることができる、なんとも言えない気持ちよさです。
岩部家に保多織が引き継がれた頃に、それまで絹で作られていた保多織が木綿でつくられるようになります。
「絹は高級品。それを木綿に変えることでより多くの人に使ってもらえるようになった。僕はこの保多織のシーツを、全国の人に敷いてあげたい。そのくらい、この保多織は肌触りがいいんです。」
岩部さんはそうおっしゃいます。
岩部家に引き継がれたことで、私たちの生活に身近になった保多織。
一貫しているのは「より多くの人にこの心地良いものを使ってもらいたい」という本当にいいものを残していこうとする気持ちと、様々な人達にとって心地よい生活品を届けようという思いやりのように感じました。
取材の最中も絶えずお客さんがやってくる店内。
長年、岩部保多織本舗で寝間着を作っているお客さんや、自身の洋服、そして父親へのプレゼントを探しにきたというお客さんなど。
「ここのはね、一度使ったらもう他のものは使えなくなるよ」そう聞こえてきた言葉が、地元の人に愛され続けている何よりの証拠です。
勇心酒造の日本酒は、居酒屋はもちろん酒屋でもなかなかお目にかかれませんでした。それもそのはず、創業160年の歴史の中でここ30年間はほとんど酒造りをしていなかったのです。その代わり、酒造りの決め手となるお米の発酵技術の研究を突き詰め、その技術を化粧品メーカーに提供したり自社で化粧品を開発したりして、美容健康業界に貢献してきました。
ところが2011年、地酒「勇心」を醸造し、2013年には「かがわ県産品コンクール」で最優秀賞を受賞し、またたく間にその評判が広がりました。なぜ今、地酒造りを再開したのでしょうか。
勇心酒造が日本酒造りを本格的に再開した背景には、地元の農業を支えたいという思いもありました。
減農薬米と酒蔵周辺の地域を潤す綾川の水を使って、地酒を造ろう。そんな思いで、数年前から三豊市財田町の農家と力をあわせて減農薬の米作りに取り組み、ようやく軌道に乗り始めたのが3~4年前のことです。
そのため、あるだけのお米でしか日本酒を造れず、香川県内でもなかなかお目にかかれません。
通常はどの酒蔵にも、お酒を造る蔵人のリーダー、たとえば大工でいえば棟梁のような存在の「杜氏(とうじ)」がいます。しかし、勇心酒造には杜氏はいません。地酒「勇心」は7人の研究者が造っており、年齢は蔵人としてはとても若い20~30代です。大学で微生物や細胞について学んだ理系出身者である蔵人たちは絶えずお米の発酵について研究を続けています。相手は生きている酵母。気候が違えば管理の方法も異なるため、研究者は日夜データを分析し、そのデータを基に酒造りを行っています。そして長年の研究の結果、思いどおりの日本酒の味を造るにはどの微生物を使えばいいかが少しずつ分かるようになってきました。
さらに、発酵と酵母その繊細さについて知りつくしているからこそ、できあがった日本酒の管理にも気を遣います。販売店を限定し、陳列する際にもきちんと冷蔵保存してくれる酒屋だけにお酒を置くことにしました。これも香川県内でもなかなかお目にかかれない理由のひとつです。
平成25年度にかがわ県産品コンクールで知事賞を受賞した「勇心 純米吟醸 9号」、「勇心 純米吟醸 14号」は、香川県の原料にこだわり、瀬戸内の魚に合う酒を目指して造られました。原料や味のほか、もう一つ注目すべきがそのデザインです。酒を瓶から注ぐ時に酒が瓶の中を流れる様子に注目してください。ラベルの間を酒が流れていく様子は、まるで砂時計が時を刻んでいるように見えます。それは、長年の勇心酒造の歴史を表しているかのようでもあります。
地元の農業に対する思いや緻密なデータに基づいた酒造り。勇心酒造はこれからも地元に根付いた酒造メーカーとして、新しい商品を生み出していくことでしょう。
麦茶の美味しい季節がやって来ました。
香ばしい、香りの麦茶は、麦を炒って作られます。
香川を含む瀬戸内海は昔から麦の一大生産地。
雨に弱い性質の麦は、温暖で雨が少ない地中海性気候の瀬戸内海地域と相性のいい穀物。麦は、讃岐うどんの原料としてなじみある作物で実際に麦秋の季節になると、主に善通寺市・丸亀市・坂出市・仲多度郡・綾歌郡あたりの中讃地域を中心に香川県内のいたる所で風に揺れる黄金色の麦畑を目にします。
そんな麦の一大生産地、讃岐のはだか麦「イチバンボシ」だけで作ったのが「ほんまもん麦茶」。
ピーク時は1万ヘクタールを超えた麦畑も、高齢化や食の嗜好性の変化で今では約2000ヘクタール、約5分の1ほどの作付け面積まで減っているのが現状です。
そんな現状を打破しようと、平成14年にJA香川県とコープかがわが共同開発して生まれたのが「ほんまもん麦茶」。
今回、開発から販売に携わるJA香川県、茶流通センター所長の﨑川 和雄さんにお話を伺いました。
﨑川さん、JA香川県のお茶流通センターにずっと勤務されていて、お茶に携わること35年。
県内のお茶の栽培指導に始まり、出来上がった茶葉の競りから、物流まで、そのお仕事は多岐にわたります。
そしてご自身も兼業農家。土日のお休みは、お住まいの塩江でお茶の栽培をされています。塩江といえば、生産量こそ減ってしまいましたが、県内でも良質な茶が収穫される地域。日本茶インストラクターの資格も持っているそうで、まさにお茶づくしの毎日。讃岐のお茶のエキスパートと言っても過言ではありません。
「100%、香川のはだか麦でつくった麦茶。素材が良いため、麦を焙煎するだけで十分美味しい。何ちゃする必要はないんです。」
香川県のはだか麦の品質は全国でも1、2位を争うほど。一般的に麦茶は大麦を原料にしますが、ほんまもん麦茶は、はだか麦を使用しています。はだか麦は外皮がほとんど混入しないため、焦げた匂いや雑味、イガイガ感がなく、麦の甘みが引き立ちます。
甘く優しいさっぱりとした味わいが特徴で、県内はもちろん、北は仙台から、一番人気は関西圏と、年々全国幅広い地域からご注文やお問い合わせがあるそうです。
特に人気の麦茶パックは香川県産のはだか麦「イチバンボシ」のみを使用、姉妹品の「ほんまもん緑茶」のペットボトルに使用されている緑茶も香川県産の一番茶を100%使用と、とことん原料にこだわっています。かといって、1つが何千円何万円というように高価なわけでもありません。
それは、良いものでも手が届かない価格では意味が無く、本当に良いものを多くの方に届けたいという思いからの価格設定だそうです。
材料にこだわり、けれど手に取りやすい価格で提供するということは、消費者はもちろん、麦の生産者も自身が育てた麦が商品として人々の手に渡る場面を目にすることにもなるため、生産者にも更なる喜びをもたらします。
香川県のはだか麦、他にはお味噌や醤油、焼酎などの原料になっています。
「素材そのものがいい。何も加えていないから美味しいんです。」
麦茶のこだわりはやはりはだかムギそのものの素材の味。
それが味の決め手の9割で残りが焙煎の仕方。温度と焙煎時間にこだわり、ムギの甘みを最大限に引き出せるようにしています。
シンプルな手法で作る贅沢な逸品、夏はもちろん、1年を通してご家族皆さんの愛飲品としてお使いになる方々も多くいらっしゃるそうです。
大きく口を開いた張り子の虎は、笑っているようにも見えます。
なんだか憎めないとっても愛嬌がある表情の虎が田井民芸さんの作る張子虎です。
田井民芸さんは讃岐の西部、三豊市にあります。
その三豊市にある仁尾港。
仁尾は江戸時代、荷物の積み出し港、また参勤交代の中継地点として栄えた港町です。
その頃、讃岐のこの地に伝えられたのが張子虎です。
張子作りは仁尾町を中心に栄え、かつては讃岐から大阪に修行へ行ったり、大阪から職人さんが教えにきたりもしていたようです。
「獅子の子落し/獅子は子を産んで三日たつと、その子を 千仞(せんじん)の谷に蹴落(けお)とし生き残った子ばかりを育てる」ということわざにも込められているように、昔から虎は勇猛で親子の愛情が深い動物として縁起が良いとされていました。
かつては日本各地、男の子が生まれた家庭で端午の節句や八朔に合わせて飾られていました。
小さいものは12cm程度、大きなものは子供が乗ることができる1mを超えるものまで。表情も作り手によって、また一つ一つ手作業で作られている為にどれも違います。
取材に伺った1月は5月の子供の日に向けて張り子の製作が最盛期。
大忙しで張り子の製作中。
5代目伝統工芸士、田井艶子さん。
可愛らしい笑顔が印象的な方です。
小さなまめ虎「とらちゃん」から大きな子供が乗ることができるサイズの虎まで、全てのサイズの木型があります。その型に和紙を貼り重ね、虎の形を作っていきます。
木型に貼り重ねる和紙は、新しい和紙だけでは堅すぎてきれいな形にならないため、昔の教科書などの軟らかい和紙も使用しています。
時代とともに紙の質も変わってきているため、新しい和紙と古紙との配合は、その時々に使用する紙の質によって異なります。
そのため、必要な紙を選別し、長年の経験に基づいてちょうど良い硬さになるよう調整し、何重にも重ねていきます。
虎の土台の白いとなる胡粉を塗る前の虎は文字で埋め尽くされています。
昔の作り方どおり、虎のひげには白い馬毛を使用しています。
虎の大きさに合わせて丁寧に選別しされ、形を整えられたひげによって、虎の表情はさらにいきいきとしてきます。
だいたい5層ほどに和紙とのりを塗り重ね、乾かし更に胡粉を塗って虎の色や模様を付けていきます。
1体の張子の完成までに約20日間ほどかかるそう。
手のひらに乗るサイズから人が乗ることができるサイズまで、すべて手作業で同じ工程で作られていきます。
張子の模様や表情は全て手描き。
神経を集中して一筆を進めます。
「昔はね、もっと勇ましくて怖い表情の虎だったんだけど、今はもっと優しい表情の虎になっています。」
元々艶子さんはお嫁さん。張子虎作りを継ぐつもりはなかったそうですが、「先代の手伝いはずっとしていて。先代が亡くなった時にもうやめようかとも思ったんだけど、やっぱり周りの人が続けて欲しいと言ってくださる方が多くて継ぐことにしたんです。」と、周囲の人からの熱意に応え、作り続けているそうです。
作り手によっても表情が全くことなる張子虎。
田井さんの作る虎達は、どこかおおらかな優しさと愛嬌感じる虎です。
小さな12cmほどの「とらちゃん」は艶子さんが考え出したものだそうで、ネーミングもその姿も愛らしく、いつも身につけ、飾っておきたくなります。
伝統を大切にしながらも、その人らしさがある張子。
田井さんの作る張子虎は、力強さの中にも女性らしい優しさの詰まった虎です。
木目を感じるシンプルな美しいフォルムの器は、そのままずっと眺めていても飽きない佇まい。
まだ使用年月の短い肥松の器は、少し手に残る独特の触感と木ならではの暖かみを感じます。
日本は国土の約67%、3分の2が森林で覆われており、私たちの暮らしと木々の関わりは古くから切っても切り離させないものでした。
もちろんそれぞれの地域ごと風土に適した木は異なります。
香川といえば、全国の約8割のシェアを誇るほどの盆栽の一大生産地。
盆栽の樹種として昔から使用されているのが黒松です。
その黒松の中でも、樹齢300年以上の油分をたっぷりと蓄えた木の中心部が肥松。
肥松は100年程の時間をかけて色が飴色に変化し、手触りも使用するごとに良くなるという特製を持っています。「親子孫三代続くことでその家が完成し、栄える」とされていた日本の考え方や、松竹梅にも表現される松そのものが持つ吉祥の象徴的な意味合いも相まって、肥松は高級木材として重宝される木材でした。
香川では黒松の育ちやすい環境があり、昔から良質な肥松が採れていたため、大阪や京都など広く出回っていました。
またろくろ仕上げの肥松の木工品も江戸時代から作られており、茶人などに愛好されていたようです。
そんな肥松を使用した木工品を作っているのが、高松市内に工房をもつ有限会社クラフト・アリオカです。
田んぼの広がる、讃岐らしい細いクネクネとした小道添いにその場所はあります。
讃岐式のろくろで挽いた木工品を今でも作る工房です。
「父が木工を始めたのは戦後まもなく。終戦後、兄弟たちが戻ってきて食べるものがないので木の加工を仕事にしたのが始まり。」と工房の成り立ちを教えてくれます。
今回お話を伺ったのは、2代目肥松の伝統工芸士有岡成員さん。
最初は輸入木材を加工し外国に売っていましたが、やがて国内の木の加工をろくろで始めるようになります。
その際に、低調しかけていた香川の漆芸を再興させた人間国宝の磯井如真氏に腕を買われ、氏に提案され作り始めたのが肥松との出会い。
肥松は油分を多く含む特製のため、加工が非常に難しく、高い技術が必要となります。
また肥松の器の制作を後押ししたのが、香川のかつての知事、金子正則氏。
仕上げの油に酸化しにくいオリーブオイルを使用するようアドバイスを受け、いまでもクラフト・アリオカさんの作る肥松の仕上げはオリーブオイルです。
そんな偶然の出会いが重なり、幻とまで呼ばれていた肥松が、今、再び私たちでも手にできるようになりました。
松脂の多い肥松は、ろくろで削っていくと顔中が木屑だらけになってしまうほど。
有岡さん曰く、死んだ木を使ってもだめで、生きているうちに切り出した木でないと、この肥松独特の時間による色の変化は生まれないのだそうです。
しかし、残念な事に、樹齢300年を超える黒松は現在ほぼ入手できない現状。
もしあったとしても、切り出してから20年間以上は寝かせないと使用できないため、「今ある父親の代のストックを使っていくしかない」と有岡さんは語ります。
材料である肥松も、天井付近の軸からベルトを引いた横向きに座るロクロの造りも、讃岐で受け継がれていたもの。
「壊れても人を傷つけることの少ない”木”。
作られているものは人にやさしいものが多い。」
時間の経過と共に味わいが増す、有岡さんの作る器。
日々の暮らしに寄り添うずっと手元に置いていたい讃岐の逸品です。