今回は志保(しお)山の中腹に位置するまるく農園に伺いました。まるく農園が位置する仁尾町の曽保(そお)地区は瀬戸内海に面し、急斜面であるのと日照時間が長いこともあり、香川県内で有数のみかん産地です。
山上からは、日本のウユニ塩湖として、全国的に有名になった父母ヶ浜(ちちぶがはま)や伊吹いりこで有名な伊吹島を望むことができます。
今回はまるく農園を経営する組橋さんご夫婦にお話を伺いました。
組橋さんご夫婦。右下に見えるのが父母ヶ浜
最初にみかんが曽保地区にもたらされたのは明治の終わり頃に遡ります。初めは日本屈指のみかんの生産地、和歌山県から海を渡ってやってきました。このあたりは山腹の傾斜地ということで水を得るのが難しく、かつては葉タバコや唐辛子の生産が盛んでした。そこから戦後の農地解放の際に、国からの払い下げの山地を15軒ほどの農家で分け、みかん畑を開いたとのこと。大正9年生まれの組橋さんのお爺さんの時代の話です。
曽保地区は瀬戸内海に面していて、冬の寒さが穏やかです。また、讃岐山脈と七宝山脈の2段階の山脈で雨雲が堰き止められ、降水量もわずか。産地では育てられる作物が限られる中、そんな気象条件とみかんの相性が抜群でした。
全国的にみかん農家は家族経営がほとんどで、生産人口も大幅に減少。平均年齢は約72歳と後継問題に課題を抱えています。そんな中でまるく農園のお二人はまだまだ若手です。
ご夫婦以外にも外国人スタッフを含め数人の従業員に手伝ってもらっているそうです。海外からのスタッフにはゆくゆくは永住権を取ってオーナーになってもらいたい、あるいは祖国に帰った後にも、ここでの経験やつながりを活かし農作物の販売を国をまたいで広げたい、そんな夢の広がるお話を聞かせてくれました。
倉庫にならぶ道具たち
組橋聖司さんが家業の果樹畑を継ぐ決意をされたのが27歳の時、当時はご両親とともに、キウイの栽培を担当されていたそうです。小さな頃は跡を継ぎたいという気持ちは全くなかったそうですが、サラリーマンは自分には向いておらず、みかん農家であれば自分の裁量で全て決められるということで、その道を決断されたそうです。ただ、初めてすぐにその考えが甘かったことに気づきます。当初は労働時間と利益のバランスにおいて、時給換算すると高校生のバイトよりも低かったそうです。
その後はわずか3年目には仕事を全て任されました。31歳の時に、広島県出身の愛子さんとご結婚。愛子さんは当時、香川県内の別の果樹園で働いていました。まるく農園では自身の栄養士の資格を活かし、加工場の設備設計にも携わっています。
ひと昔前だと、農家に嫁ぐお嫁さんは家事をしながら、農作業のお手伝いをするというのが多かったようですが、まるく農園では聖司さんは畑仕事に集中し、愛子さんも自主的にやりがいを感じられるような業務を担当し、役割分担をしているそうです。
聖司さんの運転で畑に案内していただきました。
車1台しか通れないほどの狭い山道を、時に何度も切り返しながら登っていきます。
今では収穫時にみかんを運ぶためのモノレールが設置されていますが、昔は三尺道(幅1メートル弱の道)しかなく、人力で運んでいたそうです。中にはモノレールを自分で設置する方もいらっしゃるそうです。
畑には鳥よけの機械がニワトリのような鳴き声を絶え間なくたてていました。 ちょうど私たちが伺った2024年9月末頃はみかんが緑から黄色に色づき始めていました。
現在、まるく農園では、11月、12月前半、12月後半と時期によって出荷するみかんの品種を変えています。みかんだけで約300品種も種類があり、そこから選びます。農家によってどの品種を選ぶかが違い、個性が出ます。
また、近年では温暖化の影響は大きく、害虫の生育状況、雨の降り方、耐熱性、耐寒性も変化しているので、それに合わせて流動的に品種や栽培方法なども変化させているそうです。
新しい品種の試験栽培についても積極的で、県外視察や苗木屋さんに足を運び、実験的1、2本植えてみて、うまくいけば増やしていきます。1本植えるのに5年、さらに自分のところで増やすのに5年、合わせて計10年ほどかかり、かなり長いスパンの話になり、失敗はできないため、品種の選定の段階でかなり入念に選ぶそうです。そこでは、品種と自分の畑の土壌との相性を見極める力が必要です。同じ畑であれば栽培条件は同じかと思いきやたった20メートル離れただけで環境条件が代わり、育て方を変えないといけないというシビアなもの。こういったノウハウやお爺さんの代からの試行錯誤は、文章での伝達ではなく、実際に体を動かしながらの作業していくなかで身につけていったそうです。
レモンとレモン果汁ジュース
まるく農園ではみかんだけではなく、レモンに可能性を感じ、近年栽培に力を入れています。日本のレモンの需給の内訳は海外輸入6万トン、国内1万トンとのことです。今後は輸入品が入ってきにくくなる可能性や価格が高騰することを考えると、大きなチャンスです。
レモンはみかんに比べても寒さに弱く、雪が積もると木が枯れすぐにだめになってしまうそうで、降水量の少ない曽保地区は栽培に向いています。
組橋さんが商標を取得した「はつ恋キュンッれもん®」。このレモンを絞った果汁を飲食業者に卸しているそうですが、果肉部分だけではなく、白い内皮のワタの部分も入っているため、ただすっぱいだけではなく、甘みや濃厚さがあるそうです。(こちらのレモン果汁は一般への小売は行っておらず、業務用として飲食業者やキッチンカーにのみ卸しているそうですので、興味のある方は直接お問い合わせください。)
今後の大きな方針としては、みかんについては栽培面積を狭めてもいいので品質を上げるところにこだわっていきたいと語っていました。
今回の取材で、戦後からの時代の流れの中で地理的条件との関係で曽保地区でどのようにみかんが栽培されるようになったか、また、温暖化によるこれからの栽培環境の変化などを知ることができました。 組橋さんご夫婦の話からはお互いへの信頼関係を感じました。また、果樹栽培にかける真剣な思いや今後の展望について楽しそうに語る様子を聞くことができ、こちらも元気をもらいました。
みかんは日本人にとって身近なフルーツで、品種改良も数多く行われていることから、とても愛されていることが分かります。テーブルを囲んで家族や友達とみかんを一緒に食べると不思議と安心感を感じる方も多いのではないでしょうか。香川県西部で組橋さんご夫婦を中心に愛情をかけて作られた、まるく農園のみかんを大切な人への贈り物に選んでみてはいかがでしょうか。
香川県には「香川漆器」がある。
漆器というと、輪島塗や会津塗が有名だが、実は香川県も漆器の産地であり、国の伝統的工芸品にも指定されているのだ。その歴史は江戸時代まで遡る。現在の香川漆器の原型は幕末から明治初期に活躍した漆工 玉楮象谷(本名:藤川為造)によって形作られ、その技術は彼の弟である藤川黒斎(屋号を文綺堂)らによって受け継がれた。そして、その文綺堂から分岐して設立されたのが、今回取材させていただいた一和堂工芸株式会社(以下、一和堂)だ。
今の浅野社長は3代目で、お祖父さまが一和堂を設立。
お祖父さまはもともと百姓だったが、兄弟も多かったため石川県加賀市の山中(漆器の産地)で修業し、帰郷後漆器屋を始めた。
戦時中は軍からの依頼で漆器を作っていたこともあったそうだ。当時は金属回収令などもあり物資が不足していたため、さぬき市長尾で製造された竹を編んだものに漆を塗り重ねて食器にしていたようだ。
浅野さんは平成12年に会社を継いだ。当時は経営的に厳しい局面もあり、お父さまからはやめても良いといわれていたが、お祖父さまの代からやってきているものをなくすのはもったいないと思い、やらせてほしいと申し出て会社を継いだ。
社長に就任して取り組んだのが若年層向けの商品開発だった。就任前から若い世代の漆器ばなれは課題としてあった。昔は各家庭に漆器があり今よりも身近な存在だったが、核家族化が進み、漆器を使っていた世代から若い世代へ継承の機会が減り、ライフスタイルの変化もあり漆器は身近なものではなくなってしまった。
そんな状況を打開するために取り組んだことの一つが価格を抑えること。
漆器が身近ではない世代にとって価格が高すぎればハードルが上がってしまう。しかし、だからといって品質を落とせば本末転倒だ。そこで香川県ではあまり行われていなかった「塗りたて」という技法を取り入れることにした。これは油を含んだ漆を上塗り(漆器製作ではいくつかの工程があり、下地、下塗り、中塗り、上塗りなど。字面の通り上塗りとは塗りの最終工程にあたる)に使う技法だ。呂色仕上げ(詳細は後述)に比べると工数が減るため、コストを抑えることができる。その分販売価格も抑えられるので少しでも漆器を手に取ってもらえるのではないかと考えたそうだ。「塗りたて」の仕上がりは柔らかでふっくらした漆らしいものになる。
香川県で一般的な呂色仕上げでは、上塗りのあとに研ぎと艶上げという工程が加わる。これは漆器の中でも高級品に使用される技法だ。表面が鏡面のようにピカピカになる。しかし、これは日常使いのものというより、それこそハレの日など特別な時に使うようなものに使用する技法だ。香川漆器の祖である玉楮象谷が、幕府に献上する漆工芸品を製作していたことを考えれば、呂色仕上げを採用していたのも納得である。
この「塗りたて」という技法、工数が減ると書いたが、それでは誰でもできる技法かというと決してそうではない。むしろとても難しい技法だ。呂色仕上げとは違い表面を研がないため、塗ったその状態がそのまま完成品となる。漆は粘りがあるため刷毛目が極力目立たたないように、また埃や気泡が付かないよう滑らかな仕上がりにするには熟練の技が必要だ。
また乾燥の工程でも苦労したそうだ。当初は商品として店頭に出せるようになるまでにはかなり試行錯誤の連続だったが、いまでは一和堂の戦力になっている。
デザイン面でも様々な取り組みを行った。一和堂では香川県にゆかりのあるデザイナーとのコラボ商品を、デザイナーズシリーズとして展開している。これは県の漆器組合とデザイン協会の取り組みとして企画されたもので、参加するかどうかは各企業の判断だったが、浅野さんは「とにかく挑戦してみる」の精神で様々なデザイナーとコラボを行った。デザイナー側からのオファーも結構あったようだ。
ただ、コラボ商品の開発は必ずしもスムーズにいったわけではなかった。デザイナーのこだわりが実際の製作の場では工数やコスト面で採用するのが難しい場合もあり、デザイナーとの間で侃々諤々の議論になることもあったようだ。
漆は「乾燥」させるのに気をつかう塗料なのだ。乾燥というと熱や風をあてて水分を蒸発させるが漆の乾燥には温度と湿度が重要で、通常の乾燥とは異なる。(温度:25度程度、湿度:75%程度)
そのうえ、1度に厚く塗ってしまうと「縮み」といって表面がシワシワになってしまう。絵具と同じような感覚で扱うとうまくいかない。こうした特性ゆえにデザイナーとの間で認識の違いが表面化することもあったようだ。
こうしたやりとりを経てデザイナーズシリーズは生まれた。
商品開発で浅野さんが心掛けていることがある。
「人と話をすること」
なかでも若い人と話をすることは商品づくりのヒントになることも多い。なにげない会話の中で生まれた商品も少なくない。
高松はお盆の木地の産地でもあるため、祝いごとの贈り物としてもよく使われていた。そのため香川県下の各家庭には、漆塗のお盆が1枚といわず複数枚はあるような状況だった。そうした背景もあり、お客さんからもお盆以外で何かいいものはないかと聞かれたという。そこでカップを色漆で塗ってみたところ気に入ってもらえたそう。当時は独楽塗の朱、緑、黄の3色だったが、いまでは12色でカップだけでなくスプーンやフォークなどバリエーションが豊富だ。
県産品コンクールで最優秀賞も受賞している薔薇の器も何気ない会話から生まれた商品の一つだ。「女性ってバラ好きだよね」という日常の中での会話から、漆器で薔薇をイメージした商品を作ってみようということになった。結婚のお祝いや内祝いとしてお求めになる方も多いそうだ。
こうした様々な取り組みについて浅野さんは、
「何か出来たらいいなと思ってとにかくトライしてみる。」
取り組みを振り返って
「やってよかった。面白いし、なにより(コラボなどは)自分にはない発想を得られる。それは一和堂としても財産になる」
東京での展示会に出展した際、お父様の代から一和堂を知っている方が、イメージがガラッと変わっていて驚いていたそうだ。
様々な新しい取り組みを行う一方で、お祖父さまの代から塗りをしっかりするということを大切にしており、職人にも自分が買いたいと思わないようなものは作ってはいけないと口を酸っぱくして言っている。
コストカットのために下地などで手を抜いたとしても、出来上がったものは見た目からでは玄人でもわからない。しかし、実際に使っていると手を抜いているものは、そうでないものと比べるとやはり塗装の剥げや木地の欠けなどが生じやすくなる。だから、見えないところであっても決して手は抜かない。
デザインは時代とともに変わっても、基本的なモノづくりの姿勢は変わらない。
新しいことへの積極的な挑戦と丁寧な伝統的なモノづくり、伝統と革新の両輪で歩む一和堂の今後から目が離せない。
最後に一和堂を支える工房の様子を少しご紹介。
両手と足でささえて作業 お祖父さまの代から続く一和堂の塗りのスタイル
写真(上)は馬の毛が使われた刷毛で生漆を木地に刷り込んでいるところ。結構な力仕事だ。
高橋さんは一和堂に入社して38年のベテランだ。漆の仕事がしたくて一和堂に入社。天職だと思ってこの仕事をしている、そう仰るその瞳からは職人としての誇りと、本当に漆の仕事が好きなことが伝わってきた。
最年少の髙木さんは入社して8年目。地元の工芸高校を卒業後、香川県漆芸研究所(県が運営する香川漆芸を継承するための教育機関)に入所。そこで3年間香川漆芸を学び、修了後日常使いの漆器づくりの道に進むため一和堂の門を叩く。今は職人として漆と向き合う日々をおくる。
塗の際お盆などを支えるために脚の上に置いている布は漆を吸ってカチカチになっていた。
一和堂の店舗では栗林庵オンラインショップで取り扱いのない商品もご購入いただけます。要事前連絡。詳しくは一和堂のwebサイトをご確認ください。
今回はさぬき市にある(株)安岐水産にお邪魔しました。
安岐水産は津田港のすぐそばにあります。車で5分ほどの場所には「日本の渚百選」にも選ばれた津田の松原があり、風光明媚な観光地として親しまれています。
1965年創業、いかの王様「アオリイカ」を使った「いかそうめん」を中心に香川県ブランドのさぬき蛸や讃岐でんぶくも扱う水産加工会社です。
〈さぬき蛸といりこの瀬戸内アヒージョの製造〉
2019年度かがわ県産品コンクールにて食品部門の「うどん県。それだけじゃない香川県」知事賞(最優秀賞)を受賞した「さぬき蛸といりこの瀬戸内アヒージョ」はかがわ物産館「栗林庵」で3年半の間に2,300個以上販売するほどの人気商品です。
主役であるさぬき蛸、伊吹島周辺の海で取れたいりこ(カタクチイワシ)、香川本鷹(とうがらし)、にんにく、坂出の塩など、香川県産のこだわり素材をぜいたくに使用しています。
商品開発にあたっては何度も試作を繰り返し、食材の配合の割合や、パスタやバゲットに合わせた時の味のバランスはどうかなど、納得がいくまで半年間ほどかけたそうです。
それでは、製造工程を見ていきましょう。
一般的には機械で行うタコの滑り取り(洗浄)を安岐水産では、タコの吸盤から足の先まで手間ひまをかけて手で汚れを落とします。手で洗うことで吸盤の細かい部分の汚れもしっかり取れ、機械洗浄した場合に比べて格段においしくなるそうです。
驚いたのはこのアヒージョの製造工程もほとんど手作業でおこなっていること。
タコは食べやすい大きさにカットし、いりこは頭とはらわたをきれいに取り除きます。
丁寧に下準備された材料を全て混ぜ合わせ、オリーブオイルで満たしたトレイに入れ、均等につけ込みます。
その後、専用の加熱調理機で加熱し、粗熱をとって冷蔵庫に移します。味がなじめば、瓶詰めをして完成です。
〈県産品コンクールの受賞について〉
当時は今と比べて漁獲量が多かったさぬき蛸の普及の目的で、安岐水産にとって初めてとなる瓶詰め加工食品を2019年の県産品コンクールに応募し、知事賞を受賞。受賞後、反響は大きく多くのメディアにも取り上げられました。
過去にも県産品コンクールに出品したことがありますが、その時は惜しい結果となりました。受賞できなかった理由について考えてみると、中身の品質がいいのは当たり前だが、商品の中身だけではなく瓶や箱などのパッケージデザインも重要だということに気づいたそうです。そのときの失敗がさぬき蛸といりこのアヒージョの受賞につながったと、当時のお話も聞くことができました。
最近ではさぬき蛸の漁獲量は年々減っており、製造も難しい状況になってきています。リピートくださる方や、パッケージをかわいいとお土産に買ってくださる方もいらっしゃるので少量ずつでも長く作ってお客様にお届けできるようこれからも作り続けていきたいとおっしゃっていました。
〈漁業の技術的な発展〉
漁業従事者が高齢化し、減少している現状を重く受けとめ、香川県では「かがわ漁業塾」の研修生を募集しているとのこと。さぬき市津田にも毎年県外から漁師を目指して若者が数名来てくれているそうです。
栗林庵につなげて言えば、漁業だけではなく、香川漆器などの伝統的工芸品も後継者不足に悩まされていると聞きます。こういった、地域の魅力である産業をどう未来につないでいくか、もしくは時代にあった技術やシステムをどう取り入れていくかというのが業界に限らず、今後の大きな課題になりそうです。
〈さぬき蛸調査隊の商品開発に協力〉
今年の夏休みには海と日本プロジェクトの企画で「さぬき蛸調査隊」という子供達が参加する体験学習が行われました。タコが獲れない理由を探しに森や海に足を運び、漁師さんの話や大学の専門家の先生に聞きにいった3日間のプロジェクトでした。最初はタコを使った商品を新たに作ろうとしましたが、そもそもタコが獲れません。そこで子どもたちが着目したのはタコが減る原因と言われている鯛に注目。この鯛の増加を抑えることができれば、逆にタコが減らずにすむんじゃないか、生態系を元に戻すことができるんじゃないかと子どもたちは考えたそうです。そこでは子供ならではのアイデアとして鯛を使ったおやつを作ったらという意見が出てきたそうです。
安岐水産の社屋の隣にあるねこ海レストランで料理を提供する際のアイデアとして容器をプラスチックから木製のものに代えたり、鯛を使った食品をお弁当に入れたり、地産地消にこだわり、さぬき市や香川県でとれた食材を使用したりと興味深い考えが多数出てきたそうです。
〈チーム活動について〉
安岐水産では「チーム活動」というものを行っていて、社内の役職、部署などに関わらず、「SDGs社会貢献チーム」や「おもてなし感動づくりチーム」など、全部で6つのチームに従業員全員が参加し、社内を盛り上げるイベントや、お誕生日に感謝を伝える活動、海岸の清掃など様々な活動を行っています。
キャプテンは役職に関わらず、パート従業員やインドネシアからの技能実習生が担当することもあるそう。それぞれのチームでは日常の業務とは別の活動などを行います。インタビューを伺っている最中、事務所の雰囲気がとても和やかでしたが、そういったチーム活動が社内の風通しの良さや信頼関係を形作っているのを感じました。
〈インドネシアの技能実習生について〉
現社長の安岐麗子さんは以前、インドネシア ジャカルタへ日本食品の輸出をされていたそうですが、そういった縁もあってか、現在までに25名のインドネシアからの技能実習生を受け入れています。話を聞くところによると皆さん真面目で技術を真剣に勉強してくれて、一所懸命働いてくれるそうです。
技能実習生の取得した魚の加工方法などの技術もゆくゆくは海外からの原材料輸入などに役立ってくれることで未来につながっていけばうれしいと営業部の山中さんはおっしゃっていました。
今回取材をしてみて、さぬき蛸といりこのアヒージョの原材料や製造へのこだわりはもちろんですが、安岐水産の取り組みについて初めて伺い、社内でのチーム制の導入や、SDGsや食育に関する取り組み、技能実習生の受け入れなど広い視野を持った多角的な活動について非常に魅力的なお話を伺うことができました。これからの未来を見据えた安岐水産の活動に注目していきたいと思います。
〈株式会社 安岐水産〉
https://www.aki-mp.co.jp/
〈ねこ海レストラン〉
安岐水産の社屋に隣接した魚介類を使ったお惣菜店。
瀬戸内のおだやかな海を眺めながらおなかと心を満たせる場所です。
おすすめは「イカ丼」「たこ飯」「さしみ(日替わり)」とのことです。
伝統を大切にしながらも時代に合わせたモノづくりを実践してきた染物屋がある。
この度は創業200年を超える染物屋、大川原染色本舗へ「讃岐のり染」(香川県の伝統的工芸品)の魅力やこれまで手掛けてきた染物の話、今後の展望などについて、香川県伝統工芸士でもある7代目大川原 誠人さんと奥様にお話を伺った。
大川原染色本舗は江戸時代、文化元年(1804年)に初代である富造によって創業された。当時は一般的に藍染が中心で時代を経るごとに、その時代に合わせて手掛ける染物も変わっていった。空襲で多くが焼けてしまったため江戸時代のことについては分からないことも多い。そんな中で、藍甕(あいがめ)の底に保管していてなんとか焼け残った明治時代後期の生地見本を見せていただいた。藍染のもので当時はこの生地見本からお客様に選んでいただいて着物を染めていた。白く染め抜くために生地の両面にのりを置いている。片面だけでは真っ白にならないためだ。両面とも同じ場所にのりを置いていくのには非常に技術がいる。現在では再現が難しいものもあるという。
戦後まもなくのころは、戦時中に使用していた軍服や国防服の染め直しの依頼を多く受けていた。物資の乏しい中で新しいものを見繕うよりは今あるものを、ただそのままでは戦争の苦い思い出がよみがえる。だからせめて染め直して使おう。そういったこともあり染め直しの需要が多かった。他にも進駐軍から星条旗の染の依頼もあった、戦後すぐのことで葛藤もある中で最終的には引き受けた。当時は川や海岸で染めることもあったのだという。
その後も時代に合わせてお客様のさまざまなニーズに応えてきた。
出来るだけお客様からの依頼は断らない。そういった姿勢が今日まで大川原染色本舗が続いてきた理由だろう。
実は、誠人さんは高校選択時には家業を継ぐかどうか迷っていた。周囲からは工芸高校の工芸科を勧められていたが、他校の普通科を選択した。
そんな中、誠人さんが家業である染物について見直す出来事があった。誠人さんのお父様で先代の静雄さんが、当地のデザイン、アートに精通していた金子知事(当時)からのきっかけによって、アメリカ・シアトルにある州立ワシントン大学に客員講師として招かれ、書道と染色を一学期間指導に行くことになったのだ。
このことがきっかけで、誠人さんは家業が海外でも評価されるのだと知った。もし静雄さんがアメリカに行っていなかったら、染色をやっていたかわからないという。
「近くにいるとそれが普通になってしまい、なかなか客観的に見ることが難しかったんです。」
染物屋は全国各地にあり、その数は減ってはきているものの各地にいまも残っている。面白いのは地域によって特徴があり、それぞれ得意な分野があるのだという。例えば、岐阜県には相撲の幟(のぼり)を専門に染めているところがあるなど、染物屋といっても地域ごとにその内容は違ってくる。
香川県には獅子舞の文化があり、秋になるとあちらこちらで祭囃子の音が聞こえてくる。その獅子の胴体部分にあたる布のことを油単(ゆたん)といい、鮮やかな色彩で様々な絵柄が描かれている。この油単の染めにも讃岐のり染が使われている。大川原染色本舗でも多くの油単を染めてきた。この油単の絵柄も今と昔では違ってきている。特にここ最近でガラッと変わってきたという。以前は吉祥柄や武者絵と呼ばれる所謂定番ものが多かったが、現在は同じ武者絵でも、よりストーリー性のある絵柄や色彩など個性が光るものの依頼が増えている。他にも本来はセットで描かれることの多い「龍虎」だが、近年は「虎」だけのデザインを希望されることもあるなど、求められるデザインが変化している。また、図柄が複雑で色も多彩になっているためとても難しい作業が求められる。
「毎回がチャレンジです。」
出来上がった油単はそれ自体がまさにアート作品そのもの。展示して飾りたいくらいだねと、お二人とも笑っておられたのが印象的だった。
私もデザインを見せていただいて緻密でありながら大胆な図案に見入ってしまった。まさしくアート作品そのものといった味わいがある。
ぜひ、祭りの季節に華麗に舞っている獅子の姿をぜひ1度見てみたい。
実際、獅子を新調すると舞っている姿を一目見ようと人が集まってくるそうだ。地域振興にも一役買っている。もちろん、決して安いものでないため地域(自治体)の理解は必要だ。しかし、丹精込めて作られた油単はきっとそれぞれの地域にとって誇りとなるに違いない。
他に最近注文が増えているのが店先に掲げる「のれん」だ。
一時はあまりその姿を見なくなっていた「のれん」だが、最近では再び需要が伸びているそうだ。栗林庵でも大川原さんに染めていただいた「のれん」を使用している。お客様が「のれん」をバックに写真撮影をされている姿をよく見かける。
大川原さんご夫婦は旅行が好きで色々な場所に行かれるそうで、職業柄「のれん」など染物に目がいくとのこと。そうすると京都でも有名店などが「のれん」を使用しているのを見かける機会が増えたと感じるそうだ。
「和モダンな雰囲気や老舗感の演出として「のれん」を使用するところが増えたのではないかと考えています。」
ここまでは、大川原さんが手がけてきた染めの仕事について書いてきた。
ここで、少し具体的な作業についてのお話を伺ったので、一問一答形式で見ていこう。
Q:染めて仕上がるまでにはどのくらいかかりますか。
大川原さん:ものによって変わってきます。色数の少ないものだと3週間くらいで仕上がります。(上記の)油単などになると半年以上かかるものもあります。
Q:色とりどりの染物を手掛けられるにあたって、どのくらいの色を使用するのですか。
大川原さん:もとの色となるものは15色ほどですが、デザインに合わせてその都度調合しています。
Q:染めの中で一番難しいのは何色ですか。
大川原さん:灰色です。灰色を作るにはまず黒を作り、それを水で薄めていくことで灰色が出来上がります。他の色を混ぜ合わせていくことで黒を作るのですが、この時の配分次第で赤っぽい灰色になったり、青っぽい灰色なったりします。この作業が難しいのは染の段階では水分量が多く、この時点では黒く見えるため乾いてみないとはっきりと色がわからないところです。
Q:今まで手掛けてこられたもので最大のものは何ですか。
大川原さん:30年近く前になりますが、冠纓(かんえい)神社の大獅子 です。(*これは県指定の有形民俗文化財にもなっている。)他には約20mの幕も手掛けたことがあります。大きなものになると一度には染められないため何枚かに分けて染めますが、その分縫い合わせる際の柄を合わせることも考慮して染めなければいけません。
最後に今後についてもお話を伺った。「今までもそうであったように、伝統を大切にしながらも時代のニーズに合わせたモノづくりを行っていきたい。そして、いまある伝統のものがそうであったように、いずれは伝統と呼ばれるようなモノづくりを心掛けたい」とおっしゃっていたのが印象に残った。
恥ずかしながら、私は大川原さんに取材させていただくまで、「讃岐のり染」のことをよく知らなかった。しかし今回お話を聞かせていただく中で、「讃岐のり染」の魅力はもちろんのこと、伝統の継承だけでなく、時代と向き合いながら先を見据えた製作を行われている姿に感銘を受けた。私は漆芸の勉強や短期間だが着物屋で働いていたこともあり、いわゆる伝統分野の話を聞く機会があった。もちろん前向きに仕事をされている方も多かったが、困窮している話や消極的にならざるを得ない状況などの話題も多く聞いていた。そういう経緯からか、余計にこんなにも身近に先を見据えた製作をされている姿にはとても心動かされた。
取材のあと、製作の現場を撮影させていただいている際に息子さんも私たちに同行してくれた。伝統分野は後継者がおらず、その歴史に幕を閉じることも多いと聞く。お子さんが家業に興味を持ち、実際に継ぐことのできる体制を築くことはとても難しいと思う。 誠人さんも「これまでの伝統の継承も、これから伝統を作っていくのにも環境づくりが大切だと考えています。」とお話しされていた。 次世代への継承という点でも、大川原染色本舗のこれからが楽しみだ。
敷居が高くてお願いしづらいと言われることもあるという。そこでより身近に感じてもらえるようにトートバッグやハンカチ、巾着など、手に取ってもらいやすいような雑貨も製作している。
栗林庵オンラインショップでも一部だが取扱っているので、ぜひチェックしてみてください。
「伊予竹に土佐紙貼りてあわ(阿波)ぐれば讃岐うちわで至極(四国)涼しい」
今回は「石垣の名城」として有名な丸亀城の敷地内にある「うちわ工房 竹」にお邪魔しました。(2023年1月現在、石垣は修復中です。)ここはうちわ職人の方達が自ら作ったうちわしか置いていないため、タイミングによっては実際の工芸士の方から直接買うことができるというお店です。
皆さんは日本全国で作られるうちわの国内シェアの9割が丸亀うちわであることをご存知でしょうか? 江戸時代初期には「丸亀うちわ」の技術は確立していたといわれ、金比羅参りのお土産として全国的に広がりました。
昨今、扇風機やエアコンなどの家電の発達に伴い、うちわを使用する機会が減っていますが、改めてうちわの良さを見つめ直してみてはいかがでしょうか。
まずは丸亀うちわの制作工程を見ていきましょう。
○木取り
水分につけて柔らかくしておいた真竹をうちわに合わせた幅に切ります。
この最初の作業の時点でどのようなうちわを作るかをあらかじめ決めた上で作業を始めます。
○ふしはだけ
骨の上部の穂になる部分は3mmの厚さに削りますが、定規などで測ったりせずに長年の経験を踏まえ感覚を頼りに行います。 うちわ作りでは香川県産の真竹(まだけ)という種類の竹を使っています。竹の種類には他に孟宗竹(もうそうだけ)などがありますが、孟宗竹は厚みが15mm以上あり、たくさん削らないといけないため、丸亀うちわ作りには向かないそうです。(真竹の厚みは7mm程度) 他にも真竹は節と節の間隔が40cm程度と長いため、そういった要因もうちわ作りに向いているそうです。
○割き(わき)
専用の割き機を使って、厚さ0.5mmの穂を34〜35本程度作ります。写真で見ると分かりにくいですが、わずかに位置をずらしながら刃をリズミカルに上下することで均等な厚さの竹の骨を作っていきます。
ちなみにこの割き機は大正2年に脇 竹治郎によって開発されました。この割き機が開発され、他の職人たちも広く使ったことによって、それまでと比べて飛躍的に大量生産が可能になりました。そう、この割き機が丸亀うちわがシェアを広げる大きな一因になったそうです。
○もみ(もみおろし)
割きの作業で途中まで入れた切り込みをもみおろすことによって、切り込みを柄の根元まで均一に延長することができます。この作業は竹を水分につけ柔らかくした状態でないとできません。一見、割きの作業で根元まで切り込みをいれればいいと考えてしまいますが、そうすると竹の骨の1本1本が切れて、バラバラになってしまうため、うまくできないとのことでした。全ての作業はあるべくしてあるということを改めて知りました。
最終的には幅17mmの中に厚み0.5mmの穂が33~34本できます。
○穴あけ ○柄削り ○編み
うちわの骨を扇形に開く役割の鎌を通すための穴を開けたり、柄を削り手に馴染む形状に調整する作業です。
「編み」の作業を行う人たちについては、「編み子」と呼ばれていて、昔は子供たちが作業を担うこともあったそうです。
○付け
左右のバランスが崩れるとうちわとして形にならず、「付け」という作業はうちわを完成させる最後の大事な作業です。昔はこの作業をやる人を「付け師」と呼んでいたというほど、熟練した技術が必要になります。
○貼り
まずは骨に糊をまんべんなく、次に紙の根元だけに糊を塗ります。夏は水分量を多くし、季節によって糊の濃度を変えるそうです。
和紙の位置を合わせたあと、たわしで優しく撫でることによって、空気を抜き、隙間なく紙を貼り付けます。
紙の間に空気が残っていると紙と穂が接着しないので気をつけます。
最後に日陰で自然乾燥させます。
○たたき
うちわ作り体験では、はまぐり型と丸型のうち、好きな方を選べますが、伝統的なはまぐり型の方が表面積が大きく、仰いでみると風が冷たく感じました。
左右片側ずつ鎌をあてがって、木槌で力を込めて叩いて余分な部分を切り落とします。
栗林庵スタッフもこの工程を体験させていただきました。思いっきり力をこめて木槌でたたくのでストレス発散にも最適でした。(笑)
○へり取り
「へり紙」と言われる5~7mmほどの細長い紙を3・4cmの間隔であてがってつまんで貼り付けていきます。この作業も体験させてもらいましたが、表裏で均等折って貼るのが難しく、慎重に作業するので時間がかかりました。
昔の職人はへり取りならへり取りを、と一人の職人が同じ作業を担当していたので、ヘリ取り専門の職人にかかると、くるっと回したかと思うともう終わっているほどあっというまに貼り付けられていたそうです。
こうして一つ一つの全ての作業を正確に丁寧に行うことで最終的に丸亀うちわが完成します。
○丸亀うちわ
丸亀うちわの特徴は何ですかと尋ねると、伝統工芸士の大林 正春さんは「雄竹(おだけ)の平柄(ひらえ)」が丸亀うちわの原点である、と教えてくれました。雄竹とは直径の大きな品種の竹で、平柄とは持ち手の部分が平らということを指します。平柄だと割き機にかけることができ、そうすることによって作業効率が上がり量産ができるようになりました。明治時代に組合ができ、町全体としてうちわ作りに取り組んだところも丸亀うちわが全国的に普及した要因です。
「伊予竹に土佐紙貼りてあわ(阿波)ぐれば讃岐うちわで至極(四国)涼しい」
冒頭にも掲げたこの歌のように四国内で手に入る材料で作ることができたというのもここまで丸亀うちわが普及した一因です。
量産できるからこそ値段も抑えられ、丈夫で安い。過剰な装飾をこらしたものではなく、あくまでも日常の道具として丸亀うちわは始まりました。ただ、冒頭でも触れた通り、家電製品の普及にともない、実用品としての出番は少なくなっています。そのかわりに、家に飾って眺めたり、夏祭りで浴衣と合わせたりとファッションアイテムとして使われる方の比重が高くなってきているのを感じるそうです。これからはファッション性や装飾性の高いものに付加価値を見出すことができるような方向に力を入れたいと「うちわ工房 竹」代表の藤岡 陽子さんは語っていました。
藤岡さんはうちわ作りに携わる前は海外に生活の拠点があり、海外の文化に興味があったそうなのですが、日本の伝統工芸の良さに改めて気づくことになり、今は
「日本の伝統工芸に携わることができてとても充実しています。」
と心からおっしゃっていました。
伝統工芸士の川田久子さんは「竹を割って削って細工をするのが本当に楽しい」と目を輝かせていました。
みなさんの真っ直ぐなてらいのない言葉に、自分は心からそう思えることがあるだろうかと改めて見つめ直すきっかけになりました。
藤岡さんは以前、見学に来た小学生から言われて心に残った言葉があるそうです。
丸亀うちわについての説明を聞いたある小学生から(大切なのは)「歴史をつなぐってことですね。」という言葉を投げられました。それを聞いて藤岡さんは小学生から本質を突く言葉が出てきたことに感嘆し、なんとしてもこの伝統を途絶えさせてはいけないと心持ちを新たにしたそうです。今後の展望について藤岡さんは「子供の頃から丸亀うちわを身近に感じてもらい、海外にもアートとして受け入れられればとてもうれしい。」とおっしゃっていました。
今回取材をしてみて、丸亀うちわは他の伝統的工芸品と比べても、技術技法講座を毎年行っており、後継者対策に力を入れているのが分かりました。お話を伺ってみると、伝統工芸士の方もこの講座を受講されてからうちわ作りを始めた方がほとんどでした。定年を迎えて始められた方や子育てが一段落してから始める方もいらっしゃいました。そういった様々なタイミングで始めやすいところも、うちわ作りに携わる方が多い理由なのかなと思いました。
また、関わる方もみなさま仲良くチームワークの良さも感じ、純粋にやりがいを感じている方が多いのも、丸亀うちわに魅力があってのことだと思います。
手仕事と自然の素材の味わい深さ、また、江戸時代から続く日本文化をこれから先の未来へとさらにつなぐことの意味を考えさせられる取材になりました。