香川県高松市で親子3代に渡って漆器店を営む中田漆木にお伺いしました。今回お話をお聞きしたのは中田漆木とは別に、中田陽平個人としても栗林庵オンラインショップに出品いただいている中田陽平さん。
陽平さんは高校卒業後、現在お父様が代表を務める中田漆木に就職し、以来22年間(2022年現在)にわたって漆器製作に携わっておられます。現在は国の伝統工芸士(平成28年度認定)としても活動されており、学生や観光客向けへのワークショップ等を通じて香川漆器の魅力発信にも精力的に活動されています。今回はそんな陽平さんに漆器製作への想いや漆器の魅力について語っていただきました。
最初は漆器製作がしたくて中田漆木で働き始めたというよりは、高校卒業後の就職先として、実家が漆器店を営んでいたから漆器製作に携わることになった、と陽平さん。しかし、製作に携わるようになってからは漆の世界に魅了されていくことに。
「私自身高校を卒業して家業の漆器屋で仕事するようになり、これだけの工程を経て漆器が作られているのだと実感する事で漆器により興味を持つようになりました。」
陽平さんが中田漆木で働き始めたころには、拭き漆と呼ばれる技法が仕事の大部分を占めており、塗りの仕事はそこまで多くはなかったそうです。
拭き漆とは生漆(漆の木から採取した漆を濾して異物を取り除いたもの)を木地に刷り込み、それを拭き取る、その工程を何度か繰り返すことで、木地の木目を活かした艶のある木製品に仕上げる技法です。
また、当時は木彫教室が複数あり、そこから仕上げとして拭き漆の依頼が多く寄せられていたそうです。しかし、当時陽平さんは「その状態がずっと続くことはないだろう、木彫教室の先生も高齢化しいずれは引退される。お弟子さんがいらっしゃる場合もあるだろうけれど、生徒さんがそのまま教室に残られるとも限らない。」と考えていました。実際、当時から教室は減少し陽平さんの懸念は現実のものになってしまいました。
そこで、当時陽平さんは拭き漆だけでなく塗りの技術も必要だと考えていたそう。そんな折、一度、家を出て外で働いていらっしゃったお兄様の大輔さんが中田漆木に就職するために戻ってこられたことで、技術を学ぶため香川県漆芸研究所(以下、研究所)への入所を決意。昼間は研究所に通い、帰宅後は中田漆木の仕事をこなすという生活を送られたそうです。
「香川県漆芸研究所は、香川県の伝統漆芸や人間国宝の技法を受け継ぐ人材の育成を目指しています。」(香川県漆芸研究所HPより抜粋)
特に研究所では香川漆芸の3技法、蒟醬、彫漆、存清をメインとしており、これらは「彫る」ことをメインとした技法です。(技法の説明はこちらのページをご覧ください。)
現在陽平さんは、研究所で学んだ技法を使用した商品も製作され、栗林庵へも納品いただいています。特に陽平さんは存清を専攻していたこともあり、現在も存清を使用した漆器製作をよくされているそうです。また、3技法とは別に香川県の代表的な技法である象谷塗の漆器もよく製作されています。(象谷塗についてもこちらのページをご覧ください。)
漆器製作をするにあたって心がけていることをお聞きすると、「ひとりひとりのお客様のご希望に合わせて既存の商品をご提案したり、木地からオーダーメイドできる事も含めて、できるだけ気に入って貰えるよう意識して製作しています。」そのために、「今も昔も根本は変わらないと思いますが、より漆の魅力をアピールできるように自分達の知識やできる事を更新していきたいと思っています。」と語ってくださいました。
そう語られた通り、栗林庵オンラインショップの企画「香川の漆作家特集 vol.4」では、香川県産にこだわった商品を出品いただきました。
「今回出品している品物は素材から香川県産にこだわっているので、菓子切りに使用している竹をさぬき市長尾地区から伐採してきたり、器も数少ない地元の木地師に依頼したりして製造しています。見た目にも素材がわかりやすい仕上げを施しているので、漆器が作られた時間を感じて頂きながら長く使って貰えれば嬉しく思います。」
他にもヤドン関連商品の製作や、日本最大の産地である香川県の手袋とのコラボ商品の製作もされており、伝統を大切にしながら新しいことにも挑戦されています。
取材を通じて、特に陽平さんが大切にされていると感じたのが、人と人との「つながり」や「コミュニケーション」ついてでした。漆器製作について考えようとすると、「伝統」や「技法」などに意識がいきがちですが、陽平さんのように生業として漆と向き合った時、漆器産業に限らず、ある種、仕事をする上で根本的な部分が非常に重要なのだと改めて感じました。
その一例が漆器には欠かせない素地の部分である木地製作に纏わるお話でした。先に今回の出品商品に関するこだわりのところで語ってくださっていますが、地元の木地師の方へ依頼されたというのも、県産品へのこだわりはもちろんのこと、何より製作にあたって密にやり取りができること、日頃から信頼関係を築けていることが大きいようでした。
木地製作を木地師にお願いする場合、図面を渡して希望の形に挽いていただくわけですが、県外の場合だとどうしても微妙な修正が難しく、また注文ロットも大きくなることに加え納品までに時間がかかることもある。その点で今お願いしている県内の木地師の方だと微妙な修正やロットでも相談がしやすいという強みがある。これは日頃から、仕事に限らず、ちょっとした世間話をするなど、信頼関係が築けていることが大きいと、陽平さんは仰っていました。また、これは木地師だけでなく他の部分に関しても、ふだんから作り手との横のつながりを持つことが重要であるとも語っておられました。
コミュニケーションの大切さは製作面だけでなく、販売の部分でも非常に重要だと陽平さん。展示会や直接工房に来られたお客様の声を聴き、そこからニーズを汲み取っていくことは製作の指針になる非常に重要な部分。オーダーメイドでご注文をお受けする場合には、お客様のイメージに沿えるよう密にやりとりをして、真にお客様が求めているものはなにかを知る必要がある。そのためにお客様とのコミュニケーションが重要になることは言うまでもない。その上で、自身の知識や技術に不足があれば要望に応えられるように勉強してアップデートしていく。その繰り返しだと仰っていました。
最後に陽平さんにとって漆器の魅力についてお聞きした。
「長く使うことができ、使っていくうちに表情が深くなる」、こういうのもなんですが、と前置きをされたうえで、「僕が作った漆器でなくてもよいので、しまいこまわずに普段から使ってほしい。額作品なら普段から飾って鑑賞してほしい。もちろん、(陽平さんが)製作した漆器を使っていただけると嬉しいですが」と笑顔で仰っていました。
漆器は修理や塗りなおしをすることで長く使うことができる。また、漆器は軽く熱が伝わりにくいため飯椀や汁椀としても非常に優れている。まさに普段使いにぴったりの食器だ。木目を活かした木のぬくもりを感じるものから、漆器のイメージカラーとも言えるシンプルな深みのある黒、加飾を施した華やかなものまで、自分のライフスタイルにあった漆器をぜひ普段の生活の中に取り入れてほしい。
中田漆木ではオーダーメイドだけでなく修理も請け負っている。漆器のことで困ったことがあれば、陽平さんはもちろん中田漆木に相談してみてほしい。
突然ですが、みなさん和菓子はお好きでしょうか?
いろいろなスイーツがSNSや雑誌をにぎわせ、スーパーやコンビニなどで目にする機会も多い昨今ですが、和菓子に使われる素材の素朴さや、ほどよい甘さに安心感を感じる方も多いのではないでしょうか。
今回は和菓子の中でも、「種菓子」と呼ばれる最中の皮やふやきせんべいを専門に焼き上げ、県内外の和菓子屋に卸しをおこなう髙尾最中種商店にお邪魔しました。
『栗林公園の松、桜、雪』は栗林庵のオリジナル商品で、2022年3月の販売開始以来、累計1500個以上を売上げるヒット商品になりました。もち米粉をベースにほのかに感じる醤油風味のせんべいに高瀬茶などを混ぜ込んだ和三盆糖を表面に塗った昔ながらの素朴で上品なお菓子です。甘味がやさしく軽い食感なので、食べ飽きることがなくリピーターも多くいます。
それではさっそく、『栗林公園の松、桜、雪』シリーズの製造工程を見ていきましょう。
○もち米の玄米を精米→洗米→浸水→脱水の工程を経て、製粉する
まず自社で保管するもち米の玄米を精米し、それを粉にします。
このもち米を製粉するために必要なのが製粉機なのですが、最中の皮を作る事業者の中にも自前で製粉機を持つところと持たないところがあるようです。製粉機を自社で持つことにはメリットとデメリットがあります。デメリットとしては、当然お米の管理を自分たちで行う必要があり、作業工程や清掃作業が大変だったり、また準備に時間がかかるため急な注文に対応できないということが挙げられます。
そして、メリットは自社で製粉を行うことによって、新鮮なもち米粉を原料とすることができ、美味しい種菓子を作ることができるという点です。
○こねる(生地をつくる)
新鮮なもち米の粉に水と砂糖、醤油を混ぜ合わせミキサーでこねます。(ちなみに醤油は香川県産の醤油を選りすぐっているそうです。)
ミキサーでこねた生地は機械で圧延し、手作業で裁断します。
○ローラーでサイコロ状にカットする
板状になった団子の塊を商品ごとの幅にカットし、専用の機械に通すことでサイコロ上の団子ができます。生地は時間が経つとどんどん硬くなるので、すぐさま焼成作業にかかり、ふやき煎餅にします。
○鉄板で焼く
サイコロ上の団子を鉄板に並べ上下から挟んで焼き上げます。そしてサイコロ状から円形に広がったせんべいをまだ熱いうちに手で半分に折り曲げ、さらに焼き上げます。この時に厚みと形を調整するそうですが、誰がやっても同じようにできるわけではなく、ふっくらと軽い食感で綺麗な円型にするには熟練の技が必要とのことでした。
ちなみにこの機械を作っていた会社も今では無くなってしまったので、メンテナンスは自分たちで行うそうです。この機械だけではなく、他にも最中の焼成機のメンテナンスについても同様で、そこの調整にも長年の経験や感覚が必要になります。
○砂糖を塗る
和三盆、上白糖、卵白、水など混ぜたものを全て手作業で焼き上がったせんべいに塗っていきます。(写真は『栗林公園の松』。高瀬茶の粉末が入っているため緑色をしています。)
通常、どうしても塗った砂糖が流れてしまうそうですが、試行錯誤の末、砂糖が流れない方法にたどりついたそうです。
また、砂糖も日にちが立つほどにどうしても劣化してしまうので、作り立てを出荷できるように、製造と在庫管理には気をつかっているそうです。
○乾燥
○包装
そして乾燥させたものを専用の機械で個包装し、完成です。
話を聞くところによると、製粉したもち米粉はその日の気温や湿度によって調子が違ってくるため、何十年も前からその日の気温や湿度、材料の配分、焼き時間などを細かく記録したノートをずっとつけているそうです。昨今はほとんどの作業を機械が行なってくれるということが多い中、髙尾さんは生地の柔らかさやその日の気温などいろいろな条件に合わせて、材料の配合、分量や焼き加減などを“職人の長年の勘”で調整しており、365日、変わらぬ製品をつくれることが髙尾最中種商店の強みと語っていました。
パッケージデザインをお願いした藤本 誠さんのイラストを額に入れて作業場の壁に飾っていました。
パッケージについてだけではなく、商品開発についての心構えなどについてもお話しを伺い、深い感銘を受けたため、藤本さんにコピーをいただいたそうです。
作業場の中には最中の皮を成形して焼き上げるための型がありました。この型を作る会社も日本全国で数社ほどしかなく、注文しても半年以上かかることも珍しくはないそうです。最中の焼成型は240度前後の温度で使用されるので、熱によるゆがみや、経年劣化による模様の荒れが出てくるとのことです。
できるだけ最中型が長持ちするように、最中型・焼成機の普段のメンテナンスを自分たちで行うことができるのも髙尾最中種商店の強みの一つだそうです。
○新店舗について
現在開店準備中の新店舗についてもお話を伺いました。(2022年10月現在)
新しい店舗ではオリジナルの最中も販売予定で、こちらは新たに自社用に型を作成し、自宅でオリジナルのあんこを最中の皮にはさめるような販売方法も検討されているようです。
お店では最中などを販売するのはもちろんですが、せんべいや最中のできるまでの過程がわかるようなパネルを設置するそうです。自分たちが作ったものを売ることが目的ではなく、せんべいや最中の文化やおいしさを知ってもらうことで、和菓子業界全体に興味を持ってもらって、ゆくゆくは本業である卸業を活性化させるのが狙いだということです。
これまでは卸業を中心に事業をされていたようですが、これからはそれ以外の新しいことにチャレンジしたいという前向きなお話も伺えて、こちらも背筋が伸びるようでした。これからの髙尾最中種商店にもみなさん期待してください。
髙尾最中種商店は祖父、祖母の代から父、母、息子、奥さんとご家族を中心に長年つづけられてきたようですが、経験と勘をたよりにおいしさのために妥協のない製造方法を守り通しているのを今回の取材で強く感じました。また、ハイテクな機械まかせではなく、自分たちで細かいメンテナンスや調整を行い、全体としてどこか人肌の温度を感じることができるところが、最中やせんべいの安心感のある素朴な味につながっているのだと感じました。みなさんも、昔ながらの最中やふやきせんべいの味をあらためて再発見していただければうれしいです。
栗林公園の裏山、紫雲山に連なる峰山で養蜂を営む峰山ハチミツに取材に行ってきました。
お話を聞かせてくださったのは株式会社ミネックの社長である天野洋平さん。
もともと株式会社ミネックは浄化槽の設備管理を主にする会社で、洋平さんの代になってから新事業として養蜂業を始められたそうです。
洋平さんとミツバチの出会いは以前勤めていた会社。そこでの出会いから、会社を継ぐために香川県に戻って来られて養蜂を始められることになるわけですが、「すぐに養蜂を始めようと考えたわけではありませんでした。」「いつか養蜂ができたらいいなくらいで、最初はペットとしてミツバチを飼ってみようという気軽なものでした。」
それが今年の7月で、養蜂を始められてから丸7年。
養蜂を始められるにあたって、「養蜂業界では個人事業主として養蜂を営んでおられる方がほとんどのため、明確な養蜂技術の継承方法がなく、独学で養蜂について学びました。」
また、「ミツバチが色々な場所から花の蜜を集めてくるため、他の養蜂家さんがいるところからある程度距離が離れている必要がある。」など養蜂ならではの注意事項があるのだとか。また、「養蜂をやってみたいという人は多くいるものの、考えていた以上に大変で途中でやめてしまう方が多いのが実情です。」洋平さんも最初、養蜂をしている知り合いの方から、「養蜂は難しいぞ。」「毎年決まった量が採れるわけじゃないから、ストックは持っておいたほうがいいよ。」とアドバイスされたそうです。幸い「いまのところ極端な量の変化はなくきています。」ただ「自然のものなので全く採れないこともあるのかもしれないなとは思っています。」
ここで、そもそもミツバチがどんな生活をしているのかをお聞きしました。ミツバチが花の蜜を集めて、いわゆるハチミツを作っていることは知っていても、その生態については全くといって知りませんでした。
ミツバチのグループを構成するのは「1匹の女王蜂と数パーセントのオスバチ、90%以上が働きバチです。」ちなみに働き蜂はすべてメスで、オスは採蜜を行わないそう。では何をしているかというと、交尾のみしています。
女王蜂は最初から女王蜂として生まれてくるのかと思いきや、巣の中にある王台と呼ばれる場所に産み付けられた幼虫が、ロイヤルゼリーを食べ続ける(他の蜂も生まれてから3日目までは食べるもののそれ以降は花糖と花粉に変わる)ことで女王蜂になるのだとか。
次に1年間のサイクルとして「2月ごろは5000匹くらいですが、5月のゴールデンウィークの後には5万匹くらいで約10倍に増えます。短期間で増えるので時期によってハチミツの採れる量が違ってきます。」
「若い蜂は巣の中の作業だけで採蜜には行かないんです。生後2週間くらいたってからハチミツを採りに行くようになります。」
生後2週間。そもそもミツバチの寿命はどれくらいなのかをお聞きすると、「採蜜を行う働き蜂は40日くらいです。」つまり1シーズン中にも働き蜂は世代交代が行われていることになる。なので「ハチミツは実はすごく貴重なものなんですよ。」と洋平さん。
ミツバチの大敵はスズメバチ、特にひときわ大きいその名もオオスズメバチ。そしてダニ。スズメバチは人にとっても正直出会いたくない蜂ですが、ミツバチにとってはまさしく生命にかかわる存在。そのため、「春先のうちにできるだけスズメバチの女王蜂を駆除します。」それでも当然完璧ではなく、秋にもスズメバチを駆除する必要があるそうです。
そして、もう一つ厄介な存在なのがミツバチの卵に寄生し、卵の養分を餌とするダニ。採蜜を行わない時期に2種類くらいの薬を交互に使用して駆除をするそう。交互にする理由は薬に対する耐性ができてしまうため。ただ、完全に駆除できる薬が今のところなく、毎年多くのミツバチが命を落としているそうです。
昔はダニはそこまでいなかったが、増えてきているという話もあるそうで、原因はよくわかっていないようです。「薬の開発は今後の養蜂にとっては一つの大きな課題」だとおっしゃっていました。
自分で世話をすることで、そこからいろいろと学ぶことが多いそうで、一例として、「蜂は黒色に反応して攻撃を仕掛けてくるといわれていますが、黒色のものを身につけているからといってすぐに攻撃をしかけてくるわけではなく、怒らせてしまったときに初めて、黒色に目がけて攻撃をしかけてくることに気が付きました。」
刺されることはないのかお聞きしたところ、「刺されるときは10発くらい刺されます。」
今回の取材中にも1回刺されておられましたが、平然とされていたので大丈夫なのかお聞きすると、「結構痛い」とのこと。ただ「痛いからと騒いでしまうと、ミツバチが余計に興奮してもっと刺される」のだそう。
では、どんな時に刺されるのか。
「ミツバチの機嫌が悪いと刺されやすいです。寒い日や風が強い日などは特に機嫌が悪く、逆に暖かい日には機嫌がよい」とのことでした。ちょうど取材の日も少し肌寒いときでした。
次に峰山ハチミツの特長についてお話しを伺いました。
すっきりした甘さと香りの良さが特長で、峰山ハチミツのハチミツはすべて百花蜜。
「時期によってヤマザクラ、ニセアカシア、ミカン、ハゼの花、モチノキ、アカメガシワ、百日紅などの花の蜜が混ざっています。」しかし峰山ハチミツでは「花の種類ではなく、ハチミツが採れた季節や時期を明記するようにしています。」これは「採れた時期によって風味が違う」からだそうです。実際、購入されるお客様の中には採蜜された時期を指定して購入される方もいらっしゃるのだとか。(在庫がある限りは提供できる。)
「ハチミツというのは養蜂家が作っているわけではなくミツバチが作っています。そのお手伝いをしているのが養蜂家」なので「天然のものでコントロールすることは難しい。」
なので「味わってみて好きだな、と感じたものを選んでくれたら。」そして、「毎年の違いを楽しんでいただけたら。」と洋平さん。
次におすすめの食べ方もお聞きしました。
「難しい質問ですね。」と前置きしつつ「ベストはハチミツバタートースト。これは絶対なんですよ。」と少し力を込めて答えてくださいました。
ほかにも「ドレッシングに使っていただくのもおすすめです。玉ねぎとにんじんをすり下ろしたものと、醤油と酢とオリーブオイルを入れて混ぜ合わせて完成です。」「サラダにかけると野菜の風味から始まって、後味にハチミツの花の香りがほのかな余韻として広がる。」のでドレッシングとして相性がいいのだとか。そういう意味で「ソースにいれても面白い。」とも。
保管に関しては「冷蔵庫に入れると結晶化してしまうため、机の上(常温)に置いておいたほうがいいです。また、容器からすくい取る際にはキレイな乾いたスプーンですくってください。水がつくと糖度が下がり発酵してしまうことがあるので。」とアドバイスをいただきました。
最後に「峰山という自然の中にある環境を活かした、現在養蜂とは別に行っている探検隊という子どもたち向けのイベントも含めて、観光農園のような形で訪れる人に楽しんでいただけるような展開をしていければと」今後の展望も語ってくれました。
ミツバチに刺されることもある中での養蜂についてお聞きしたとき、「憎たらしいです、手間もかかりますし。でも世話をした分、返してくれるので。子どもと一緒ですね。」と少しはにかんだように語ってくださったのが印象に残っています。
新商品の構想もあるそうなので、今後の展開が楽しみです。
昭和の頃には、春先から端午の節句にかけて日本各地で大きな鯉のぼりが大空を泳いでいた。
しかし今では、鯉のぼりをあげている家は少なくなってきている。
今回、坂出市のご自宅で手描き鯉のぼりを制作している「手描き鯉のぼり 三池」さんを訪ねた。
もともと奥さまのご実家が製造業を営んでおり、三池さんは元々はサラリーマン。三池さんが本格的に鯉のぼりを作り始めたのは57歳の時、お義父さまが亡くなられてからの事。それまでは、お義父さまが依頼を受けて、小学生たちに実演を行う際にお手伝いをするくらいだったそうだ。
それが、いまでは20年近く手描き鯉のぼりを作りつづけている。なにか特別な想いがあるのだろうと思いきや、「使命感があったわけではありません。ただ次の世代への繋ぎになれれば。」と笑う。
鯉のぼりの素材は昔ながらの和紙。明治ごろは和紙のものが多かったそうだ。布製の鯉のぼりもあったが、戦後しばらくまでは物資不足もあり、和紙の鯉のぼりが主流だった。
「和紙を貼り合わせて、鯉の形に裁断、成形して大きな鯉のぼりにしていました。」と奥さま。
ここで、そもそも鯉のぼりがどんな経緯で生まれたのかに触れておきたい。
江戸時代、武士が端午の節句に家紋の入った幟や吹き流しを飾る習慣があった。それを、一般の庶民がまねて鯉のぼりをあげたのがはじまりだと言われているようだ。なぜ鯉なのかについては中国の故事が由来だとされている。「登竜門」ということばにもなっている、中国の黄河にある龍門。そこを登り切った鯉は龍になる、と言われていることから、鯉の滝登りは立身出世の象徴であり、それを模した鯉のぼりにも、跡継ぎに対する立身出世への願いが込められているのだろう。
話を戻して、奥さまのご実家のお店について、その歴史を見ていきたい。先々代で創業者の山下さん(奥さまの旧姓は山下さん)が播州、いまの兵庫県で鯉のぼり作りを学び、そのノウハウを持ち帰ったのが始まりだという。
しかし、鯉のぼり屋といっても、年間を通して鯉のぼりだけを作っていたわけではなく、「鯉のぼりは季節ものなので、季節によって凧や灯籠なども作っていた。和紙や竹ひごなど使用する素材が一緒だったから。」とは奥さま。
奥さまも子供の頃からお父さまのお手伝いされていたそうだ。
「分業で製作していたのでご家族と従業員の方を合わせて10人くらいで分担しながら製作していました。」
三池さんによると「当時は皆、絵が描ける人たちばかりでした。お義父さんは下書きもせず、感覚で描いていました。」ならば絵を描く事が好きだったのかと思いきや、「好きというよりは、職人だったから。」と奥さま。職人として経験を積んだからこその技だったのだろう。
また、鯉のぼりに纏わるこんなエピソードを語ってくれた。
以前は一般的に母方の実家が鯉のぼりを用意していた。立派な鯉のぼりをあげることが1つのステータスであり、立派な鯉のぼりをあげると、「良い嫁がきてくれた」と言われていたそうだ。ところが、だんだんサイズが大きくなってしまい、最終的に「競争になるから、鯉のぼりは揚げるな。」なんてことになってしまった地域もあったという。
昭和のバブルのころには、海外へも輸出されていたという。
「製作した鯉のぼりにMade in Japanの印を押して、輸出していました。」
端午の節句にあげるためではなく、「玩具」として輸出され、パーティーの飾りやタペストリーなどのインテリアとして流通していたようだ。アジアのエキゾチックでオリエンタルなデザインがウケていたのであろう。
瀬戸大橋が開通した際には、記念公園で家族総出で実演販売を行なったそうだ。
「あれが大きなイベントとしては最後だった」と懐かしそうに語る。
いまでは住宅地やマンション住まいなど生活環境の変化、端午の節句に対する価値観の変化によって、鯉のぼりをあげることが少なくなっている。
そんな現状に三池さんは、「子どもの頃に鯉のぼりをあげていた年配の方には、鯉のぼりへの郷愁があると思います。玄関先などに飾って季節を感じていただければ。」と語る。
そんな思いから三池さんの代に誕生したのが、栗林庵でも販売している卓上サイズの小さな手描き鯉のぼりだ。
「お義父さんの代まではここまで小さなサイズの鯉のぼりを作ってはいませんでした。お客さんの要望に応えていたら、いまの形になったんです。」
土台の木は資材屋で買って来た材木を、三池さん自身で成形しているそうだ。
鯉のぼりの口部分と木の支柱に巻き付けてあるワイヤーは別々になっている。支柱側のワイヤーは「く」の字型でそこに鯉をはめて固定しているので、鯉を引っ張ると簡単に外すことができる。これは普段コサージュ等を作っておられる奥さまのアイデア。
「手芸用のワイヤーを使ってこういう形にしてみたらって」と奥さま。
お二人の共同作業によって、いまの形が出来上がった。
以前は顔料を使って彩色していたが、鯉のぼりのサイズが小さくなったので、いまではアクリル絵の具と墨汁で小さな鯉のぼりにひとつひとつ丁寧に鯉の姿を描いている。その細やかな仕事から、「印刷しているのでは?」とおっしゃられる方もいるのだという。
そんな三池さんに奥さまは「とても細かいところまでこだわってつくっているので、工程見本をつくっておかないと次の世代が同じように作れない」とほほ笑む。
しかし今後の展望について、「後継者の問題もあり、手描き鯉のぼりが継承されていくかどうかはわからない」と三池さんは語る。
鯉のぼりは当初、歌川広重の浮世絵に描かれているように真鯉一匹だった。それが時代の流れの中で緋鯉が増え、今では青や緑の鯉もいる。子どもを意味した真鯉がお父さんに、緋鯉がこどもに。今では緋鯉はお母さん、その下にいる小さな鯉が子どもたちにそれぞれ変化している。
鯉のぼりは、その誕生から現在まで、時代に合わせて変化を続けてきた。ただ子を想う親の気持ちは変わらないはずだ。
大空を泳ぐ姿は雄大で美しい。
一方で、小さな和紙の手描き鯉のぼりには素朴な風合いと愛らしさがある。いまのライフスタイルに合わせて生まれた小さな手描き鯉のぼり。お子さんのいる家庭で端午の節句に合わせて飾るのはもちろんのこと、季節の風物詩やインテリアとして飾ってもいいかもしれない。三池さんの作る鯉のぼりの最大の魅力はここにある。気軽にそして手軽に、日本の風物詩を味わうことができる。
バブルの頃海外に輸出されていたと先に述べた。栗林庵には海外からのお客様も多い。日本的なお土産を求められる方にとっては最適なアイテムの一つだ。また、逆に日本から海外へ行くので、何か良い手土産はないかと探しているお客様も意外と多い。日本的かつコンパクトで持ち運びがしやすい小さな手描き鯉のぼりはそんなニーズにも答えてくれる。大空は泳がないかもしれない、しかし空を飛んで異国の地にたどり着くのだ。
昔を懐かしんで、子どもの健やかな成長を願って出産祝いやお誕生日の贈り物として、また新築祝いや引っ越し祝いなどのギフトにもぜひ活用してほしい。後継者問題は気がかりではあるが、手描き鯉のぼりにはこれからも子どもたちの成長を見守ってほしい。
香川県の中心にある高松港からフェリーに乗って1時間、観光地としても人気が高い小豆島に辿り着きます。
小豆島は豊かな島です。オリーブの植樹に日本で1番最初に成功したことから、産業にはオリーブオイル、オリーブ加工品の生産、手延べそうめん、醤油、佃煮など気候風土にあった美味しいものがたくさん作られています。
海があり山があり温暖な気候なので都会からの移住者も増えている人気の島です。
ちょうど取材に伺った際は瀬戸内国際芸術祭2019の会期中。たくさんの観光客の方を見受けました。
今回訪ねたのは小豆島でこだわりの塩を作っている「波花堂」。
穏やかな海が近い静かな場所に製造現場はあります。
「波花堂」の主、蒲 敏樹(かば としき)さんは海のない岐阜県出身。
なんと小学5年生の夏休みの自由研究では「塩づくり」をテーマに提出していた過去がありました。
大人になって岐阜で土木関係のお仕事をしていた際、あまりの忙しさに体調を崩してしまったことが奥様と自分たちらしい生き方を模索するきっかけになり、移住先の候補地として色々な土地を巡った結果、目の前には海、背中には山がある小豆島に決めたそうです。
塩づくりに欠かせないのは海水。
まず、島の中でも澱みの無い清浄な海水を汲むことが出来る静かな浜を選びました。小豆島町田浦の澄んだ海水を汲み上げます。
浜の近くに蒲さんが設計し、地元の大工さんに建てていただいた小屋があります。そこで海水の水分を飛ばし、「流下式塩田」という方法で濃い塩水を作ります。
上から塩水を落下させ「支条架(しじょうか)」と呼ばれるネットを通し衝撃を与える事でよけいな水分を飛ばし、蒸発を促して早く塩になる為の大事な工程をおこないます。この工程で海水中の塩分濃度を3〜4%から10%程度まで上げて濃縮した「かん水」を作ります。現在2基の塩田装置があります。
塩づくりで大変なのは、季節に応じて作り方が異なること。
気温、湿度によってかかる時間、作業量が変わってきます。
夏場は早く蒸発するので1週間、冬場は2週間と出来上がり方に時間の差が出ます。
ここでできた「かん水」をすこし離れたログハウスのような雰囲気のある小屋に運びます。
ここでは、薪をくべ、水分を蒸発させる鉄釜に「かん水」を炊き上げます。
その作業を「煎ごう」と言います。
釜に火をくべる際の薪は椎茸を穫り終えた原木や佃煮の原材料が入っていた木箱など使用しています。
この煎ごうという作業中は火は絶やすことが出来ません。天候に左右されながら火を入れていきます。また火を止めてしまうと鉄釜がさびてしまいます。塩作りに必要な鉄釜は塩水と鉄が化学反応をし、火の強さ、蒸発具合を見ながら先に結晶化していくカルシウムを取り除いていきます。
蒸発して減っていくかん水を継ぎ足しながら1〜2週間かけて塩の結晶を取り出していきます。
その後、杉樽に塩水を移し寝かせます。こうして全体をなじませ塩の味を均一にします。その後、水分とにがりを抜いて塩の結晶を取り出します。
取り出した塩は作業場で水分をとばし、ふるいにかけて粒を揃えていきます。
この作業場はとても良い場所で小高い場所にあり、窓からは小豆島が眺める事が出来るように設計したとのこと。小豆島の自然豊かな環境で海を眺めながらうまれたての「御塩」の袋詰めを行ないます。何とも羨ましい作業場です。
この作業場は元、大家さんの敷地に現存していたたばこの葉の乾燥蔵をガルバニウム外装を施し、清潔感があるおしゃれな秘密基地のようにリノベーションされています。
湿度によって塩自体の重さが変わってきますので作業場は常にエアコンをつけている様です。
蒲さんはとてもシンプルで自然の恵みを楽しみながら丁寧な暮らしをされています。広い庭、畑にはすもも、梅、ゆすら梅、栗、みかん、レモン、朴葉、茶、ハーブなど色々なものが実り、育ちます。裏の山では山菜採りもできるそうです。
奥さまが庭の梅と「御塩」で漬けた梅干しをいただきました。とても味が深くやみつきになる梅干しでした。
またご自宅では麦みそも作られていました。香りがとても高くすごく美味しいお味噌汁ができるんだろうな。と想像ができました。
過去には漁師の方にたくさんのいわしをいただき、「御塩」で漬け込み、自家製ナンプラー(魚醤)をつくられたこともあるんだそう。地産地消の極意ですね。
生活して行く中で小豆島の人々に助けていただき、支えていただき、豊かな自然に守られながらたくさんの「縁(えん)」を感じ、商品名は「御塩(ごえん)」と名付けられたそうです。蒲さんは小豆島で生まれた「御塩」はどんなに希少になったとしても必ず小豆島、香川県では買えるようにしたいとおっしゃっていました。地元で買えなくなるという本末転倒な事が起きないように気をつけたいとのこと。私たち栗林庵でも取り扱っている商品は香川県の皆さまに普段使いとして愛用していただき地元の商品の良さを再認識していただきたいと思ってお店を運営しているので同じ思いを感じました。
蒲さんは「御塩」を野菜、魚料理にぴったりですと教えてくれました。素材を引き立たせる塩。それは塩の粒が大きすぎず、小さすぎず、噛んでいる間に塩味が継続されるからとのことでした。岩塩のように粒が大きく溶けづらいと長く塩味が続くのでそういう塩は肉に合うそうです。
普段使いには天ぷら、おにぎりに抜群です。
小豆島産のオリーブオイルと御塩で旬の野菜をいただくのは最高ですね。
自然の恵みを最高の調味料でいただける幸せを皆さんも味わってください。